宿題もすてたもんじゃない。
宿題(うわー)の現代文のワーク(桐原書店のやつ)で、別役実さんの「正しいあいさつの仕方」(出典:『日々の暮し方』)という評論がありました。解説曰く「この文章は、内容は真面目を装いつつ、実際はジョークになっている」らしく、また「衒学的」な雰囲気が込められている。つまり「パロディ」だ、とのこと。
ワークにこんな文章が出るとは思ってなかったから、解説読んだときはヤラレター(破られたラブレターの略でない)と思いました。そんなメッセージ読み取れない。そういえば清水義範『国語入試問題必勝法』がどういう本か知らずに、懸命に読んでいたこともあった。嘘を嘘と見抜けない(嘘というわけではないけれど)。
清水氏の著書を読むなら、彼がどういう作家か知っているので問題ないわけですが、試験問題みたいに独立した文章を読むときは、真のメッセージを読み取るのが大変ですね。さらにこれはウェブ上の情報にもいえそうです。
サイトは文脈を表します。いつもどのような文章を書いているかで、その文脈が形成されます。「珍しく真面目ですね」などのコメントがみられるのも、読み手がサイトという文脈を意識しているからです。作り上げられてしまった文脈から逃れようと、サブのブログをもつサイト運営者もいます。このように、あるサイトから情報を受け取るにあたって、そのサイト自体の情報すなわち文脈のもつ影響は大きいです。
(続く、かもしれない。以下参考)
情報・時間・コミュニケーション、そして意識(4)(CNET Japan Blog - 江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance)より世の中には、断片的な知識は増えている。ネットなどの媒体の充実によって、知的好奇心を満足させるひとくちサイズの情報には困らなくなった。だけど、それらの情報をつなぎ合わせて大きなコンテキストの中に定着させるということは相変わらず難しい。
いわゆるメリハリをつけるという行為が苦手だ。
やることないから「トレG」の画像を貼っておく。
レッド君とレインちゃん。ろまんてぃく。萌える。
立ちションしてます。ブルー君が「レインは やんない?」とお誘いしたところ。萌える。
彼女は魔人ミオ。200歳を超えている。性癖は台詞の通りである。萌える。(このゲームはたしか小学生のころにやったのですが、そのころの僕にとってこの魔人ミオの存在は強烈でした。たぶん、どきどきしていた)
「世界には無数のパワーがあり、それらは多様であるからこそバランスが取れているのだ」という台詞に続いて。
とにかく4人(3人+1匹)の仲が良い。ほほえましい。ところで「女の子が覚醒」するストーリって多いね。たまたまかな。ボスキャラに「シニフィエ」と「シニフィアン」というやつがいた。いまならワカル。
ああげーむはおもしろいなあ……。
『よつばと!』は良いね。
スーファミの「トレジャーハンターG」というゲームをやっています。萌える(そういうゲームぢゃないけど)。
不毛な悩みは解決可能であるか。
たとえば「勉強する意味がわからない」→「勉強しなければわからない」→「勉強せずにわかりたい!」。勉強の意味という問いに決定的な答えはない。歴史上にはとんでもねえ哲学者がいっぱいいるのにわかない。それだけ難しいのだ。だから大人(歴史そのものとか長生きしている人とか)は「とりあえず勉強しなさい」とアドバイスするしかない。これは逃げの答えでもなんでもなく、積み重ねられた思惟・哲学・議論から導かれた最善の答えである。僕はわからないが、大人はわかっているんだろう。
したがって、「勉強せずに勉強の意味を見出す」という試みは愚かであるとみなされる。史の裏付けとともに「不毛」というレッテルが貼られているからだ。それにあらがったところで、得られるものはあるのだろうか。(後略,メモ:同じ悩みをもつ人へのアドバイス、形式化、折り合い、本質、逃避、逆迎合、物語・現実、ごほうび、罪悪感・充実感)
以下Amazon.co.jp。
どーせ僕気負うし。みたいな。
「これだ」「いまだ」と感じることがある。そのときしか感じられないから、なにがなんだか、いったいなにものなんだか、わからない。
数学の教科担任とクラス担任である国語の先生に刺激を受けた。と思いきや、一歩身を引いている自分がいた。
この一年を振り返ると、けっして満足できるものではない。
方法と実践とのギャップ。記号と意味とのギャップ。失敗と経験とのギャップ。妥協と止揚とのギャップ。意志と維持とのギャップ。解決と解消とのギャップ。恣意と思惟とのギャップ。できることとやることとのギャップ。知ったことがあることと知っていることとのギャップ。学んだ──と表すのもおこがましい。これらを隔てる深淵に陥りそして嵌りこんだ。身動きできない──しない自分に浸るかのように。
それはいいとして、
高校行ってきた。あーなんかアレだ。生徒が怖そうなのばっかでチンチン萎えた。
てとさん、お誕生日おめでとう。
昨日アボンした文章は書き直しておきました。言語を学ぶことで得られるもの。伝わらないネットサーフィンの臨場感。
「全文引用するんじゃなくて、引用先を読ませたくさせるような書き方が大切なんじゃないかな」という感じの文章に心当たりのある方は、メールフォームか愚痴溜めからURLを教えてくださいな。記憶がわーってなってる。わーっ。くろぽメモの意味ネー。
まず、
とくに、
しかし、
エディタが落ちたのはたしかにショックだった。おまえワザとだろ、と憤った。「涙よね」のときはパソコンを愛しく感じたが、今度は恨めしく感じる。それでも自分では気に入っている文章だったので(気に入らない文章なんてない!)、書き直そうとする。面倒臭い、やる気が起きない、でもお兄ちゃん頑張って復元するよ! とか思うのだが、お兄ちゃん、頑張れないよ。
悪い癖だが、僕はなにかにつけて意味や価値を付けたがる。自分の行為に評価を下すことを最優先するのだ。「駄目だ」「嫌だ」と思うときならまだしも、「重要だ」「必要だ」という評価を下したときですら、行為に及ぶことを気負う。だから何もやらない。
書き直すことに意味などない。当たり前のように書き直せば良いのだ。しかし思考の再構築やアウトプットの追及など、もっともらしい理由を付けたがる。だからできない。消えたから戻す、という自然な意識、あるいはそれすらも意識しない達観。理由のないことに理由を求めない。解消を切り捨てて解決を求める。やることとやらないことの違いとはなんだろう。
意識は日々変わりゆく。かつてどうしようもないと思っていた違和感が、いつのまにか解消されている。
小論文にはなんらかの解決を書くべきである。解決を導くには当然元となる問いが必要だから、問題発見能力すなわち視野の鋭さをも採点者にアピールできる。それに建設的な思考をする方が良いに決まっている。さんざん論じて「だから深刻である」と締める文章には、皮肉さやスリルこそあれど、小論文としての価値はない。
──ということは以前から理解していた。気がつけば、この認識は僕の中で当たり前のものになっていた。理屈で理解していたことが、いまや価値観に組み込まれていたのだ。問題点のあいまいな模範解答を読んで、解決がぜんぜん書かれていないなあ駄目だなあこりゃ、と無意識に思った。解決が解消を導いたのだ。
解決によって解消に導くということが、まだすこし姑息に感じる。つまり解消していない。しかし、思考を前に進めたい(真理に近付きたい?)という価値観はある。うだうだ悩むのも格好良いとは思うが、やはり建設的でありたい。すべてを解消に導くには、根本的な段階での妥協が必要なのかもしれない。と、ここに解決を示しておく。
参考:悟りのガイドラインニート(NEET)とは
Not in Employment, Education or Trainingのことだが
(゚д゚ )
(| y |)
仕事なんてしなくていい、だが学ぼうではないか
In Education ( ゚д゚) Not in Employment or Training
\/| y |\/
学ぶ心からネットの世界が広がるのだ
インターネット・エクスプローラなどのブラウザを使うとよい
( ゚д゚) IE・NET
(\/\/
ちなみにタブブラウザも便利である
(゚д゚ )
(| y |)
リンク先では主にビジネスにおける英語の強みについて書かれています。僕は高校生だからビジネスとかはよくわからないので、「英語を勉強すること」でどのように役立つかということを考えることにします。
まず一点目、道具としての役割があります。コミュニケーションの道具として、政治やビジネスにおいて英語が求められることがあります。これはリンク先の内容に近いので、簡単に済ませておきます。「英語を勉強すること」というより「英語が使えること」のメリットだしね。
つぎに二点目、英語を勉強することによって(英語が使えるようになること以外に)間接的な学習が生じます。
これ以下アボーン。お兄ちゃんがんばって書き直したよ!
そのひとつは、思考の形式の学習です。英文は日本語とは異なった論理構成であることが多く、またしばしば「論理的」 だと評価されます。「パラグラフ」も、日本の「段落」ほどあいまいでなく、ひとつのトピックが収められる明確な形になっています。このような英文に慣れていくことで、思考や文章の形式を研ぎ澄ませることができます。
もうひとつは、実質的な知識の獲得です。文章の構成が優れているということは、そのぶん「良い英文」が多くあることにつながります。それらを読み解いていくことで、同時に良質な知識を学び取ることができます。また、高校生のレベルでは関係ないもしれませんが、最先端の研究は英語文献にまとめられていることが多いです(知らないけど)。それらを学ぶにも英語が必要です。これは「道具」としてのニュアンスが強いですね。
そんで三点目、英語を勉強すること自体が教養となりえます。日本語の話ですが、たとえば『源氏物語』を読めたところでだからどうということはありません。でも、僕は『源氏物語』を読んで楽しめる人は、教養があるんだな−、と感心します。たとえ古典でなくとも、敬語を正しく使える人はすてきですね(あけすけにいえば、物腰の穏やかな女の子が好きだ!)。歴史の淘汰から生き残った言語を学ぶことは、それ自体が教養となりえます。それに英語の語源っておもしろいのが多いよね。とまあ主観的ですが。
以上の三点から、英語を勉強するのはけっこうな大切かなと思うのですが、ここで疑問が生じます。とくに意味のない仮定遊びなのですが、もし世界共通語が日本語だったらどうなのだろう、あるいは、もし母国語が英語だったらどうなのだろう。そのとき(道具として)必要のない言語を、僕ははたして学ぼうとするのかな。そしてこの問いが浮かぶ。なぜ日本語(母国語)を学ぶのだろう? ……収拾がつかないので終り。
今日もネットサーフィンを紹介しようと思ったところで、気づいたことがある。ネットサーフィンなんか紹介してもおもしろくないんだ! 根本的なところを見落としていた。ちなみに僕のいうネットサーフィンとは、ある特定の情報を軸に主に検索によって関連情報を巡っていく行為である。
ネットサーフィンのおもしろさとはなんだろうか。それは有機的な情報の展開を切り開いていく、知的探求の興奮である。「あ、この言葉は知らないな」と検索にかけるだけで、良質な情報に出会えることもある。そのときの喜びもさることながら、そこからさらにリンクを辿ったり、トップページに遡ったりすることで、さらに情報が展開されていく。まるで脳のニューラル・ネットワークを示唆するような営みである。知を開拓していくこの臨場感こそが、ネットサーフィンのおもしろさなのだ。
したがって、ネットサーフィンのおもしろさは本人にしか味わえないわけだから、「羅列」による情報提供というのは、このことを踏まえた上での合理化によるものなんじゃないかと考えたけれど、これはニュースサイト論としては論じるまでもない当たり前の前提なのかなと思って、なんだか後戻りしている気がするところで、今日のネットサーフィンを紹介します(と思ったけどアボンしてもうやってランネーから、羅列に留めておきます)。
意識は日々変わりゆく。かつてどうしようもないと思っていた違和感が、いつのまにか解消されている。
小論文にはなんらかの解決を書くべきである。解決を導くには当然元となる問いが必要だから、問題発見能力すなわち視野の鋭さをも採点者にアピールできる。それに建設的な思考をする方が良いに決まっている。さんざん論じて「だから深刻である」と締める文章には、皮肉さやスリルこそあれど、小論文としての価値はない。
──ということは以前から理解していた。気がつけば、この認識は僕の中で当たり前のものになっていた。理屈で理解していたことが、いまや価値観に組み込まれていたのだ。問題点のあいまいな模範解答を読んで、解決がぜんぜん書かれていないなあ駄目だなあこりゃ、と無意識に思った。解決が解消を導いたのだ。
解決によって解消に導くということが、まだすこし姑息に感じる。つまり解消していない。しかし、思考を前に進めたい(真理に近付きたい?)という価値観はある。うだうだ悩むのも格好良いとは思うが、やはり建設的でありたい。すべてを解消に導くには、根本的な段階での妥協が必要なのかもしれない。と、ここに解決を示しておく。
参考:悟りのガイドラインニート(NEET)とは
Not in Employment, Education or Trainingのことだが
(゚д゚ )
(| y |)
仕事なんてしなくていい、だが学ぼうではないか
In Education ( ゚д゚) Not in Employment or Training
\/| y |\/
学ぶ心からネットの世界が広がるのだ
インターネット・エクスプローラなどのブラウザを使うとよい
( ゚д゚) IE・NET
(\/\/
ちなみにタブブラウザも便利である
(゚д゚ )
(| y |)
リンク先では主にビジネスにおける英語の強みについて書かれています。僕は高校生だからビジネスとかはよくわからないので、勉強において英語がどのように役立つかということを考えることにします。
まず一点目、道具としての役割があります。コミュニケーションの道具として、政治やビジネスにおいて英語が求められることがあります。これはリンク先の内容に近いので、簡単に済ませておきます。高校生にはあまり関係ないしね。
二点目、英語を学ぶことによって(英語が使えるようになること以外に)間接的な学習が生じます。
これ以下アボーン。
ごめん。また書くよ。
過去ログを振り返ってみると、「凄い」で停止している情報の枚挙にいとまがない。ネットユーザの多くもそうではないだろうか。たとえば、あの「電車男」のような長文が、なぜあそこまで読まれた(ように見える)のかいまだに疑わしく感じている。話題にとりあえず乗っておこうと流し読みしただけの人もいるだろう。僕の記憶には「オタクが恋愛する物語」という程度のことしか残っていない。あとはムーミンのAAくらいだ。
もしかしたら、実際に「電車男」は多く人に読まれ、感動されたのかもしれない。だとしたら、「読まれぬ力作」と「読まれる力作」はどう違うのか。作品そのものの質的な違いはもちろんあるが、ウェブにおいては、その作品を取り巻く環境からの影響が大きい。(「流れ」)
ところで、「とても気に入ったから紹介したけど、あまり広まらない」という(主にニュース系)サイト運営者の悩みがある。さらに、たとえ広まったとしても、それが実際にどれだけ読まれているかは、知る術がない。「(じっくり読んだら感動した!)これすごいんだぜ!」と情報を提供しても、「(うわっ、すげえ長文!)おお、すごいな!」というすれ違いが起こっているかもしれない。
これについて「どのような形で情報を提供するか」という方法を問う重要性がうかがえるが、今日も淡々と日記を書くことにする。
今日は終業式だった。はやいもので、僕ももう高校三年生である。高校三年生というと、中学生ごろの僕のイメージによると、おそらくキスとかしている人が多いお年頃ではないか。信じられない。僕が高校三年生なんて何かの間違いなんぢゃないかと思う。全国の高校三年生よ、キスをしてはいけない。
それはともかく、ここ数日は「サテライト」というものを受けていた。学年末で先生方がお忙しいので、予備校のビデオ教材を使って学習を進めようというものである。とくに英語がおもしろかった。テキストの英文はたしかに難しかったが、読み応えがあった。それにあいまって講師の解説が良かった。(これについて、英語は何に役立つのか(ko-ko-sei nikkiより)への言及や、「教える」ことと「説明する」ことの違いについての再考をしたいところだが、後日にゆずる)
良い講義の受け方とはどのようなものだろうか。そのひとつに「講師の発言を能動的に捉える」という心構えが挙げられる。一方的に情報を受け取るよりも、一対一で対話をしたほうが思考は活発になる。だからといって、必ずしも一対一である必要はない。ある人物が自分だけに向けて話していると思い込むこと、そしてそれに対して自分の考えをつむぎ出すことで、仮想的な対話が営まれる。この対話によって受け取る情報の価値がより大きくなるのだ。
これは文章についてもいえる。自分ために書かれた文章ともなれば、自ずと興味がわいてくる。僕の場合、「高校生」に向けて書かれた文章に敏感だ。また、より直接的な意味では、サイト間の言及や馴れ合いなども含む。これは「思い込む」までもなく、まさに自分だけに向けられた情報である。馴れ合いが楽しいのも仕方がない。(ここで「個人がブログによって情報を交わすことで、個人にとっての主観的な情報の価値が高まる」という仮説が思い浮かんだが、ここでは置いておく)
そんでまあ、「情報に対する能動性は失わないようにしたい」という、昨日とまったく同じ教訓に帰結するのが不思議だ。今日のネットサーフィンを紹介して終わりたいところだが、あいにく時間がなかった。ニュースサイト失格である。
「精神的に向上心のないものは──がばらっ!」
ソキウスというサイトがある。見ればわかるが、凄い。ウェブには凄い情報が溢れている、とまではいかないが、たまに「凄い」と思ってしまう情報に出会う。たとえば膨大なリンク集や長編の物語やまとめサイトなどである。しかし、僕は「凄い」と思ったきり、読むこと考えることを停止してしまうことがある。読まないままサイトで紹介することもあるが、どれだけの人がそれを読んでいるのだろうか。
これについて述べたいことは尽きないが(まだ述べていないから尽きないと思うのだが)、今日は淡々と(?)日記を書くことにする。
社会学感覚の脱領域の知性としての社会学の読んだ。まだほんの一章だ。「社会学感覚」の極一部、「ソキウス」のチリみたいなものだ(失礼。金粉みたいなものだ)。それなのに読み応えがあった。僕は社会科学と社会学の違いもろくに知らなかった。今日この章を読んで、スタンダード 反社会学講座をいっそうおいしくお召しあがれるような気がする。ちなみにこの「反社会学講座」も「凄い」で停止しているサイトのひとつである。
せっかくインターネットを利用しているのだ。「わたし、もっとあなたのこと知りたいの……」と思えば、ググれば良い。「あなた」に関連した単語を検索にかけるだけで、もっと知ることができる。インターネットは欲求を即座に満たしてくれる。とても興奮する。今日の僕の欲求を知りたければ、検索録およびくろぽメモを参照されたい(「もっとあなたに見てほしいの」という意味だ)。
検索によって夢がひろがりんぐ、で、様々なページが見つかる。その中で良いページに出会えたら、トップページをたどってみるのがよい。良いページを伴うサイトは、えてして良いサイトであるからだ。そこにリンクページがあれば、さらにネットサーフィン(なぜこの言葉は廃れたのだろう)してみるのも良い。良いサイトの運営者は、えてして良いサイトを知っているからだ。
ネットサーフィンの経緯を詳しく紹介するのは難しい。実際に行われるのはページ単位の紹介がほとんどで、それを行うのがニュースサイトである。そこではサイトの紹介はあまり行われない。サイトだけリンクされても、閲覧者はどう読めばよいかわからないからだ。そのため「これはコレコレこういうサイトです。○○というコンテンツがとくに面白いです」という説明が必要だが、面倒だ。
また、最近は日々追記していくタイプのサイトいわゆるブログ形式のサイトが増え、独立したコンテンツというものが見えにくくなっている。「毎日見ること」ではじめて「コンテンツ」となりうるわけだ。これは「ニュース」という形で紹介するには相応しくない。「凄い」による停止にも共通するが、その場で完結する情報でないと読む気が起きない(個人的な話かもしれないが)。
しかし──
と、なにを言いたいかわからなくなってきたところで、今日のネットサーフィンを少し紹介して終わる。
「自分のよくわからない内面を埋めてくれた」に関して、なぜ人はセカイ系になるのかというコラムもおもしろかったです。セカイ系ってあくまで物語の中に関する話題だと思っていましたが、僕の悩み事にもセカイ系的な発想が含まれていると実感しました。だからって、解消できるわけじゃないんだけれどね。
「なぜ人はセカイ系になるのか」を除いて、以上はすべて脱領域の知性としての社会学をきっかけに辿りついたサイトとページである。いわゆるサイト巡回をしなくとも良い情報には巡り合えるのだと実感できた。サイト巡回はしばしば惰性で行いがちだが、情報に対する能動性は失わないようにしたい。
(メモ:図書館、ウェブ文化の歴史、網羅性、書籍)
なんらかのインプットがあること、そしてそれについて考えることまたは感じること。その源はウェブのときもあるし、日常生活からの体験や、外部(ウェブ以外の)メディアのときもある。サイトの形というのは、以上のことをどのように表現するかという違いから表れる。多くのニュースを張り倒すサイトも、ひとつの記事を語り尽くすサイトも、元となる行為は同じである。前者は「何から考える(感じる)か」を提供し、後者は「何を考えた(感じた)か」を提示する。語らぬサイト、語るサイト、そのいずれもが、インプットに支えられているのである。良きサイトは、良きインプットからはじまる。
いよいよ受験生
失念記事「エントリ単位でリンクされるのが恐ろしい。間違っている記事を修正した。ブログそのものを見ている人なら伝えられるが、そのエントリだけしか見なかった人には伝えようがない」というやつ。心当たりのある方は愚痴溜めとかメールフォームからURLを教えてくださいな。てと( ´∀`)さんから教えてもらいました。ありがとぅ。1記事完結型のBlogって、ちょっとこわい。これこれ。
逆にいえば──
良いサイトをやっている人は良いサイトを知っている。良いサイトほどリンク集の質も良いような気がする。リンク集は静的なもの。それが動的になるとニュースクリップと呼ばれる。良いサイトのリンク集が気になるように、良いサイトがどのように動的に情報を得ているかも気になる。リンク集の方が洗練しやすいが、新しい情報に目がむけられるネットでは、ニュースクリップが重視される。
個人的には、リンク集を大切にしたい。リンク集と呼ばれるものをニ分類してみる。ひとつは、「柱リンク」や「巡回サイト」と呼ばれる、「サイト」と「巡回」に焦点を当てたリンク集である。もうひとつは、ある特定の目的や対象に応じて作られた、「サイト」と「ページ」の混在したリンク集である。(後略)
「リンク集」の役割に着目。
おひさ
書く気が起きない。メモのような文章。
このまえ「高度なサイト論にも意義なんてないぜぃ」ということを書いた覚えがある。
こういうことを書きたかったんだと思う。どっちにしろ理屈としてはスカスカ。
こんなことをメモしておいてアレだけど、僕は、初心者がありがちであやふやなサイト論を誰にともなくさして目的もなく書き垂れるのも良いと思っています。感情論だけど、それが個人サイト(論)らしさだと思うし。それに人生と人類の象徴だと思う。むやむや。
書きたいことは多くある。文章とは思考と感情のアルバムである。もうだめだ。薄れている。
僕の思想は二つ──
僕はわからないこと知らないこと間違えること失敗することが嫌いだ。しかし嫌なことをしなければ楽しいことが増えない。この矛盾をどうしようか。楽しむために嫌な目に遭うことは嫌なことではない、という解決。解消はできない。
今日は進路について学校でいろいろやった。計画書を書けない。志望理由書を書けない。前者は未来の自分を追い詰めることを咎めて。後者は、単純に、わからない。学びたいこと、その動機、社会的意義。すべてわからない。すべてを学びたい。しかしその理屈は通らない。すべてを学びたいのだ、すべてがきっかけなのだ、意義はすべて個人的だ。ただそれだけだ。
まあこんなことで悩むのもいい加減むだなので、なんらかの解決を立てる必要があることは最近わかってきたし、とはいっても解決であってやはり解消ではない。解決でいいや、しよう。どうせほとんどの研究者とかって社会的意義とか考えてないだろ(尊敬の意を込めて)。
僕が書けないとき、というか、僕が書かないとき、既に書き終えていた友達が『ニュートン』を持ってやってきた。先生の用意していた参考資料のひとつである。僕は彼とそれを読みいった。美しい写真。衝撃的な事実。科学雑誌とはこうもおもしろいものであったのか。あらゆる物にはゆれたがる周期があるらしい、震度0でも揺れるらしい、なんだそれ。彗星に弾丸をぶつけてその構造を調べるって、ありえない。
少なくとも学術にはおもしろいところがある。それだけわかれば十分だ。学術がおもしろいものである限り、僕は生きつづける。
個人的な定義の話しだが、解決と解消は違う。(僕の個人的な定義において)社会的に価値を持つ(という矛盾)のは解決である。しかし解消を大切にしたい。
こんなにネガティブなときでも、学術はおもしろい。だいじょうぶ、まだ死なないよ。
昨日、一昨日に戻ろう。研修旅行であった。チームにわかれて順位が決めるとあることも行ったが、僕のとこの結果は芳しくなかった。「とあること」というのは、一般化して表現すると、「ポテンシャルを引き出す試行錯誤」である。一般論だが、対象にだけでなく、人間自身にも大切だと思った。あとここには書かないけど、萌えたこともあった。
プレゼンもあった。学校行事のたびに思うのだが、僕はエンタテイナにはなれない、ならない、なりたくない。僕のクラスにはものすげえ女の子がいる。詳しくは書かない。
さらに遡り、今日から三日前。数学の教科担任の先生はやはりすごい。教師という職が偉大に思われるほどだ。こう思っているのに、なぜか書けない。感情はうすれゆく。
パソコンの前に座るたびに、「書けないな」と思う。この文章もそうやって書き始めた。いまも「書けないな」と思う。だが、意味合いは大きく異なる。どういうことかは書かない。
じー。なんか動いてる……。わっ、ねずみだ。クモじゃなくてよかった。ちょっとかわいい。でも衛生的に良くないよね。あうわわ。
明日と明後日は研修旅行に行ってくるのだ。お泊りだよ。どきどき……。
「ガスパル=ヴィレラ書簡」という音韻が頭から離れない。
仕留められなかった。逃げていない。逃していない。
終わって、居ない? 連続/断続──いずれにしろ、終わっていない。
不可解な静けさが視界を濁す。油断せよといざなう。済んだことだと欺く。
断続という概念はありえない。断続である行為はなしえない。その空白をどのように埋めるというのか。続くか。終わるか。それ以外に何があろうか。
表でもなく裏でもなく何物にも属さない空白。なんだこれは。隔離された時空。代償である平和。敵であるのか、居ないのか。
再開しよう。再び、一歩。
断続の空白は氷解する。連続に平和が倒錯する。
終わらず、居る。見据えよ。
いまさらなんだけど、もう僕も真紀奈さんと同い年なんだなあ。時間が流れるのははやい。「クレヨンしんちゃんと同い年」とか「ちびまる子ちゃんと同い年」とか「(テレビアニメの)のび太と同い年」っていうのもうっすら覚えてる。気がつけば「R-15」の作品をみれる年齢になっていた。実感ないなあ。来年になれば18禁の作品も楽しめるわけですよ。大人になるってなんだろう。あ、そうそう、雪花 - きら -っていうヴィジュアル・ノベルがすてきだったよ。18禁ですが。フリーで短いから気が向いたらやってみてくださいな。
「土屋先生ってハンサムですてき!」とか「森先生、萌え萌え!」とか思う人はちょちょいっと読んでみると良いかもしれません。「土屋×森、なんてすてきなカップリングなの、はぁはぁ」と興奮する人は即買いでしょう。
森:あの作家は駄目になったとか、書けなくなったとかって言いますよね。でも、そういう意味では、エラリィ・クイーンは駄目ですよね。(中略)でもそうじゃない。エラリィ・クイーンが書いた作品はまだ残っているわけですから、今書けるか書けないかなんて、作家には全然関係のないことであって、今まで書いたものすべてがその人の武器であるし、力なわけで、書けば書くほど力は増してくる。今は駄目なんてことはない。
(中略)
土屋:ただ僕の場合は出せば出すほどマイナスになっていくような気がして。
森:駄作を出してしまうと、それまでの作品の価値まで薄まっていくというふうに感じられるのでしょうか。
土屋:そうそう、そういうイメージですね。
森:悪い作品を書くぐらいだったら書かないほうが良い、良い作品だけ残した方が良いって、そういう気持ちがエンジニアとして理解できないんです。どんなものでも誠実に作っていれば、その人のものだし、なんらかのプラスになると思うんですが。
土屋:そうですね、確かに。
森:そう考えると、気が楽。
土屋:なるほど、なにかほんとうに都合のいい考え方をしていらっしゃいますね(笑)。
パクりました。
ちょうど僕の気にしていること。あと「小説を読む人のほとんどはキャラ萌えです」みたいなことを森氏が言っていて興味深かった。
良書。もう自分で考える「型」を確立しちゃってる人には必要ないかも。でも「型」を意識したことのない僕には、すばらしい本だった。文章術の本を読む前に、まずこれから入るのもいいかもね。
本書は、私がたやすく実行していることをまとめた本ではない。三〇年近くかけて、私が少しずつ試行錯誤の上で獲得してきたことをまとめたものだ。(あとがきより)
パクりました。
っていう更新も酷すぎるので、ちょっと考えたことでも書いておきましょう。
僕は、「本物」という字面からうかがえる高尚さや胡散臭さを取り除きたかったからだと考える。
「本物の思考力」とはどのようなものだろうか。どんな問題にも即座に対応し、最善の答えを導き出す能力。つまり「理想の思考力」という意味合いが強いと思われる。たしかにこのような能力は有益である。皆がこのような能力を養っていければ、政治は円滑に進み、ビジネスも大きな発展を遂げるだろう。
しかし、実際にこのような能力を養うことは難しい。高校生である僕からみれば、どう考えるか以前に、考え方そのものがわからない人も多いからだ。学校でも考え方についての指導を行うべきだが、他の教科との兼ね合いからか、どうしても不充分になってしまう。基礎すらままならない状態で、「本物」もへったくれもない。
本当に求められる思考力というのは、実はそれほど高度(神秘的?)でなくてもいい。本書ではそれを「型」という形で明確に説明してある。「型」にそってメモを取り、質問し、論述し、反論すること。つまり「型」を身に付けるという一言に集約できる。本当に「型」を身に付けるのは難しいかもしれない。しかし、学び方がはっきりしているという点で、高尚さや胡散臭さに惑わされることはない。
「思考」と聞いたとき、僕たちはどこか壮大で深いイメージを抱かないだろうか。それは、思考とは理解しにくいものだという印象を与えることになる。しかしそうではない。思考とは、「型」で表すことができ、誰もが学ぶことができ、そして誰もが駆使できるものであるのだ。
以上のように、思考力というのは特殊な能力ではなく、実はわかりやすいものなのだ。「ホンモノ」という言葉を用いて、樋口氏はそのように主張したかったのではないか。
(゚Д゚ )……ジャポニカじゃない!
怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
──ニーチェ
けりをつけなければいけない。やり残したことがある。二学期の宿題だ。
出さなければ単位がもらえない。二学期は三学期にも及んで僕を苦しめる。
なぜという疑問の浮かぶ余地なく、なにという限定に収められず、いつという時間を超越し、どこという空間から乖離し、どのようにという手段を問わず、辻褄を合わせる、運命。
逃げられない。追い詰められた?
しかしチャンスだ。追い詰め返せ。
俺は一歩、踏み出した。今度はおまえが逃げる番だ。
あるノートを手に取った。緑色である。黒板ぽの背景色と似ているのは偶然だろう。右下は途中までちぎり取ってある。便利だからだ。最終項には目次を書いてある。三色ボールペンによるマインドマップもどきが描かれている。
いわば思考ストックノートである。自分で書いたものだが、もうろくに読めない。しかし、思考のわだちをかすかに読み取れる。考えていたんだ。それだけは、わかる。
僕が考えるということを意識しはじめたのは、いつごろからだろうか。
中学生のころ、僕は真面目な学生だった。宿題をきちんと提出し、テスト勉強も一通り済ませてテストに臨んでいた。それを当たり前のことだと感じていた。「なんで真面目にやらない人がいるんだろう?」と疑問に思っていたほどだ。とはいっても、与えられたことを処理していたにすぎない。
高校一年、2003年の冬頃だったと思う。いまから一年と半年ほど前といったところだ。本を読みはじめたころ、サイトを運営しはじめたころと重なるが、それらが直接の要因かはわからない。僕は、考えだした。
僕は賢くなるために考える。僕にとって、賢さとは、知的活動を楽しむ能力である。知的活動を楽しむこと、およびその能力を得ることは、簡単ではない。僕は、間違えること、書けないこと、考えられないことが嫌いだからだ。
そのときの弁解は、時間であった。考えられないとき、「考える」とか考えだしたのってまだ一年前ぢゃん、と納得させていた。読めないとき、読書やりはじめてまだ一年しかたってないぢゃん、と納得させていた。国語の問題が解けないとき、文章が書けないとき、もともと僕そおゆうの苦手だしだから一年くらいで……、と納得させていた。
ノートの最終項を開いた。目次である。左上には「2004/04/05〜」と書かれていた。これを見た瞬間、時間の感覚が狂ったようだった。「2004/04/05〜」が何を意味しているのか、どれほどのスケールを表しているのか、なにもわからない。
一年前だ。
漠然とそう捉えた。このノートは、既に考えている。「考えだした」ころと比べるのとはわけが違う。このノートに比べて、今の自分はどれほど進んでいるのだろう。どれほど僕は賢くなったのだろう。あのころより、どれほど楽しんでいるのだろう。一年間とはなんだ。<
たしかに文章は上手くなった。だが、それが僕の思考にどれだけ関与しているのだろう。昔の文章を読み返して恥ずかしいと思うことはある。しかし、考えることに対してではなく、その表し方つまり下手な文章を恥じているだけではないだろうか。
時間には安住できない。過ぎ去るからだ。僕に余裕を与えていた時間は、今、僕を閉口させている。(もし「ネガティブ哲学」シリーズならここで文章が終わっているだろうなあ)
しかし、人は時間以外のどこに住むことができようか。人は時間の中で生き、死ぬ。過去を背負って生きていく。時間に安住するとは、過去を満たすことであると思う(なんて抽象的)。単調な日々を振りかえってみると、過去はすっからかんである。過去を満たすには、変化することが重要なのではないか。
一方で、習慣というものが学習において重要である。僕なんかは習慣にすべきことがまだそうなっていない段階だ。まずは今日やることから(ぐわ)。習慣に組みこむことも、また変化である。組みこまれた後も、また変化である。要は意識しつづけることだろう。
より良い方法を常に模索することだ。考えることで楽しみ、そして楽しむために考える。同様に、方法により目的を満たし、目的を満たすために方法を改める。このフィードバックを絶やさない限り、習慣の中でも変化は巡りつづける。それが過去を満たすということだ。
一年後。僕は何をしているだろう。「2006/04/01」は「総合学習法リンク集」をうpする予定だ(どんなものか想像できていない)。大学に受かったらの話しだが。できれば高校生のための知的生産の技術や知っておきたかったことのような文章を一本書き上げてみたい。(「個人サイト論考リンク集」は春休みに一回更新できたらいいな)
正直なところ、難しい。「2004/04/05〜」と「今」を鑑みる限りでは、このような壮大なもくろみを達成できそうにない。学習系のリンク集は、実はけっこうあったりする。たまに教育・研究機関系のサイトにものすげぇのがある。うわ。また文章については、雑感を記すのとはわけが違う。人に伝えるために体系化された文章を書くには、技術と経験が必要でそして手間がかかる。
すべては学ぶこと、考えるという行為に基づいている。確固たる礎を築けば、これらを達成できるはずだ。たとえば授業、受験勉強、サイト運営、読書、僕はこれらがかけ離れているものとは思わない。すべてはすべてに関わり合っている。それらの接点を掴み取りたい。それが学ぶこと、考えるということだ。
松下幸之助(PHP新書の栞から)学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。
語らぬ石、流れる雲、つまりはこの広い宇宙、
この人間の長い歴史、
どんなに小さいことにでも
どんなに古いことにでも
宇宙の摂理、自然の理法がひそかに
脈づいているのである。
そしてまた、人間の尊い知恵と体験が
にじんでいるのである。
これらすべてに学びたい。
やはりこの形が一番しっくりくる。僕の基本スタイルかな。
このネタの示唆するものはなんでしょうか。僕は〈考えていても書けないことがある)と解釈しました。意味不明な文字で「はい、表した」と言うのはバカにしたような話ですが、じゃあ、僕らは普段どうやって考え事をしているのでしょう。その基盤は「言語」ですが、けっこうあいまいに「考えたふり」をすることも多いはずです。
たとえば、すべてを言語化しようと意識しながら考え事をしてみてください。とても窮屈に感じます。自分がどのように考えているかというのは、わからない部分が多いです。でも確かに考えられる。Windowsがどのように動いているかはわからないけど、ちゃんと使える。そんな感じでしょうか。
〈生きる意味〉のような問いは、そもそも難しいものです。しかし、言語化して表せる、つまり文章に書ける問いも、たくさんあります。それらを「考えたふり」で済ませるのはもったいない感じがします。もちろん書くことは簡単ではありません。でも、きっかけさえつかめれば書けるものです。
書けるようになるきっかけとはなんでしょう。文章読本のようなものを読むこと。考えること書くことについて考えること。実際に書いてみること。型に当てはめて書くこと。さまざまです。こういうきっかけを学校で教えてくれたらいいなーと思います。そうやってみんなが書けるようになったら、ウェブはもっとおもしろくなるだろうね。
デースケドガーッ、やっぱり「考えたふり」ができるのは良いことだと思います。もやもやーと考えて「おれいま考えてるぜ」って思えるのはすばらしい。うっとり。
文章の裏には、書き手の「考えふり」がもやもやと溢れかえっているのだと思います。それを感じ取るのがいわゆる「行間を読む」ことなのかしら。「考えたふり」をすべて補完できる自分の文章は、おもしろいです。他人の文章も、それだけの〈おもしろさ可能性〉を秘めているのかもしれません。あなたの「考えたふり」を感じたい。
小学校は義務教育であり、この段階で不合格者のらく印を押すことは非情と判断したのが根拠のようです。
この記事では「おまえは不合格だ!」と子どもが感じちゃうのが問題だとしているわけですが、他にも「子どもを勉強漬けにするのはよくない」という批判もあります。しかし、近年ではそのような傾向は薄れつつあるようです。
お受験どっとこむ:基本的生活習慣より確かに何年か前までは、ペーパーテストの比重が多く、それにより合否が決まる学校がありました。(中略)しかし、今の判断基準と致しましては、先生のお手を煩わせることなく、通常のことがきちんとできるかどうか ということです。
このように「勉強漬け」による子どもへの悪影響は、深刻ではなくなってきているようです。いま求められているのは、いわば常識力です。これについては引用元に詳しく書かれています。日常において大人とおなじようにふるまえることが大切だとされているようです。僕はここに二点、疑問を感じます。
一点目について。ありていにいえば、「わんぱく坊や」や「おてんば少女」のどこがいけないんだ、とことです(坊やだからさ)。あるいはその逆で、内向的な子どもはすべて悪いのか、ということです。小学校入学の時点でそこまでできる必要はないと思います。とはいっても、これは価値観の問題でしょうか。「悪い子でもいいぢゃん」って思えるかどうか。
(関係ないけど、愚痴をすこし。子どものころ塩水でうがいをさせられていたことがあった。しょっぱいんだよ! ありえない。どーせテレビで「塩水がいいんです」とかなんか聞きかじったんだろ。いまだからわかるんだけど、生理食塩水にきまってるだろ、ばーろー。塩入れりゃいいってもんぢゃNEEEEEEEE!!!!)
二点目について。子どもに常識力を付けさそうとすると、効率的に教育しなければなりません。引用元にも書かれていますが、反復によって型を植え付けるのが手っ取り早いです。このような日常の元では、子どもは窮屈に感じてしまいます。ふだんぼけーと育てて、たまにしっちゃかめっちゃかしちゃった子どもを、どかーんと怒ることも、教育です。雨降って地固まることもあります。
書いてて自信がなくなってきた。反論の余地がありまくりんぐ。関連リンク読んでからまた考えよう。(メモ:面接で「遊び」を問われる→遊び方まで教育しなくちゃいけないのか!?)
関連リンク
「ネガティブ哲学」シリーズを書き始めたころ(1月中旬)からずっとネガティブである。というのも、ネガティブに向かいやすい話題ばかりを考えていたからだ、と気づいた。意味や価値を問うこと、これらに絶対の解はないし、自分なりの答えを導くことも難しい。それなのに僕はこのようなことばかり考えていた。
自分の思惟というものに固執していたのだ。その背景には自分に対する自信がある。たとえば本を読んでいるときに、自分が考えていたこととほぼ同じ考え方に出会うことがある。嬉しいのだが、損した気分にもなる。自分の考えが、公に意見を示せるほどの人物と等しいことは、たしかに嬉しい。だが、けっきょくガイシュツだったのだ。たいしたことないぢゃん、と思う。
傲慢である。単なる高校生の浅はかな思惟が、それほどの価値を持つことはない。ある人物の考え方と重なったとしても、たまたま自分の最高点がそこに届いたと考えるのが妥当であろう。そのことから目をそむけ、自ら生み出す思惟を信じ、それを書き出そうとした。しかし、書けない。ただ悩むばかりである。
気がつけば、インプットを忘れていた。考えること書くことの根源は、読むこと聞くこと感じること触れることつまりインプットである。僕は、考えるとは車輪(水車とか)を回すようなことだと思っている。静止摩擦係数よりも動摩擦係数の方が小さい。したがって、止まっている車輪よりも回っている車輪を回す方が楽である(参考:摩擦の追憶)。回し始めには大きな力が必要だ。その力を生み出すのが、インプットである。世界は知的刺激に満ちている。それを受けたとき、あるいは掴み取ったとき、思惟は巡りはじめる。
インプットを捨てて悩み続けるのも、ひとつの哲学のあり方であろう。どうやら僕はそのやり方には堪えられないようだ。僕の目指す哲学ではないということだ。何を求めて、また何に目掛けて知性をはたらかせるか。その答えは多様である。
多様であるから、惑わされる。危ない危ない。仮定してしまおう。僕にとって学ぶこととは楽しむことである。求めるものは学びを楽むための能力。論理、概念、思想を掲げることで身に付くもの。いまここでキーボードを叩く手を休ませては、得られないもの。仮定しよう、変えられるから。決めつけてしまえばいい。目指す先が明確になるから。間違っていたら直せばいい。とりあえず、今はここがゴール。
こまぎれぱらぐらふ(語呂いいよね)
テスト休みだから一日中PCしてた。ごめんなさい。誰に、謝れば、いいのかなあ? お願い、謝らせて、ねえ。もうだめなのあたし。ごめんなさいごめんなさい!
ファーレントゥーガは名作だ。よい。
よくわかんないんだけど、いま人権がどうたらこうたらで問題になってるみたいですね。ふーん。そのうちちゃんと読みます。
ハチナナ同盟が一人増えました。やたー。アルカロイドキングダムさんです。よろすくよろすく。
香陸さんがメタについて解説しているから、メタメタしている人は見るといいよ。
たぶん学校の勉強を真面目にやればサイトのクォリティも上がると思うんだ。
高校受験かあ。もう二年前のこと。もう二年も経っている。まぢでか。
『めぞん一刻』読了。よかったよ。今日はハーバーランドでつかまえてというヴィジュアル・ノベルをやりました。よかったよ。フリーなんでよかったらプレイしてみてくださいな。さいきん恋愛というものに興味がわいてきているのかもしれません。思春期かな? 遅い(あ、そうでもないみたい)。自分ではモラトリアムだと思ってるんだけど。わー。もしかしたらそろそろ反抗期が来るのかな。とりあえず最近はネガティブです。脱皮の途中? むしろ遡るのかも。複雑だ。メタ的に見れば若者らしいなーとも思うのですが。ただ僕は「若者らしい」とかちょっと嫌っちゃうタイプなので、なおさら複雑です。
いまメタという言葉を使いました。先日メールフォームから「『メタ』ってなんぢゃい。わかりやすく説明しやがれ、そしてボケて」という旨のメッセージをいただきました。うう、難しいよお。調べてたらおもしろいサイトみつけちゃった。メタ超心理学研究室。超な上メタなのか。すごい。
メタといっても使われる分野によってニュアンスが違ってきそうですね。定義はGoogle 検索: メタとはに譲ります(手抜きでごめんなさいね)。僕なりのイメージとしては、塀に手を掛けてグイッと登る感じです。メタに大きく関連する言葉として「自己言及」があると思います。でもこれについてもGoogle 検索: 自己言及とはに譲ります(ごめんぷー)。メタについて説明することもまたメタである。なんかぱらどっくすな香り。うーん、この文章おもしろいなー。
けっきょく説明になってないや。ボケなきゃいけないの。僕そんなのできない。しょぼん。
自戒
書けるときに書ければいいや。メモでもいいよね。きをふし君マニアなら喜んで読むさ。全国に一名ほどしかいないだろうけど(僕を含めてね)。
考えることと書くことの格差に愕然とする日々(おおげさだけどね。それに愕然の用法が間違ってる気がする)。おぞん先生は考えをめぐらせて完成させてから、パソコンの前に座り一気に書くというスタイルらしい。かっこいい。僕はうんたらかんたら悩みながら書くタイプです。そういう書き方してみたいんだけどねー。あやふやに考えることが好きなんだ。あーあ。
クローズアップ現代を見ました。ありゃりゃ、黒板ぽで紹介するの忘れてた。今日学校で友達に「西尾維新が取り上げられるらしい」と言ったら、彼は大喜びしていました。でもほんのちょびっとだった。というか『ネコソギラジカル』まだ読んでないんデースケドガー。『人間試験』もまだデースケドガー。
このまえ香陸さんにおすすめされた(ログを検索しても当該ページが見つからない。あれ)森博嗣『四季』(春)を読みました。たぶん素人にはおすすめできない読み方(順番)なんでしょう。なんかよくわかんないけど2回読みました。つぎは(夏)読みます。
あとこれはクラスメートの女の子に借りたんですが(ぷぎゃー!!ぷぎゃー!!)村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(上)・(下)を読みました。おもっすろいと思うよう。
あと父上が古本屋で大人買いしてきた『めぞん一刻』を読んでいます。らぶこめだねっ。僕は恋愛モノというと『Bバージン』くらいしか読んだことがないんですが、『めぞん』もおもしろいですね。『Bバージン』もいいよまぢ。主人公、亀ヲタだしね、プギャー。
クローズアップ現代に話しを戻しましょう。よく聞くことですが、「いまほど多くの人が文章を書いている時代はない」というような話しがありました。それにはインターネットが大きく関与しているとのこと。「トラックバック」なんて単語が出てくるのはびびった。
一昔まえは小説を書くのはすごく大変なことだった。しかし、いまはそういう意識が薄れているようだ。ネット上では「百万人の作者に百万人の読者」のような関係が築かれている。したがって小説を読むこと、書くということが日常の行為となっているのだ。ここから新しい作品が誕生していき、これからは言葉というものの重要性が増していくだろう。──という要旨。
「百万人〜」というのは、「書き手も読み手もほとんど同じ立場で、著者/読者の壁を取っ払って交流できる」ということでしょうね。ネットにおいて書き手はすなわち読み手でもあります。テキストサイト「界隈」なんていう言葉があるように(?)。
また、そういう現代小説は「閉塞感」によって「サバイバル」「現代の生きにくさ」というものがテーマに掲げられているとのこと。敵が見えにくくなってるらしい。どうしようもないぜい、って。どうなんだろう。団塊の世代とかの方が「サバイバル」って印象があります。イマドキの子どもは賢くなったからぢゃないかな。わーわー騒いでも意味ないぢゃんってわかってる。(あいやー、ここらへん適当ですから、ほんと)
まあ一般論になっちゃうんですけど、みんなが読むこと書くことを楽しめる風潮は良いものだと思います。ネットの影響も大きいだろうね。ただそれで「良い文章」「正しい文章」が書けるかは別モノだと思います。とっかかりがいるんだ。ブログを書いたりすることは文章の練習にはなると思うけど、それで文章力がつくとはかぎらない。
考えるのめんどくせーから関連リンク張って済ませておくよ。らくちん。
記事が多くなってしまった。他にもメタ批評とかの記事があるんだけど。興味があったらくろぽメモでも見てくださいな。記事って並べすぎると読む気失せちゃうよね。すごければすごい特集ほど読む気が起きないという逆説。情報加工の際には気をつけたほうがいいですね。
たぶんまえの個人サイトリンク集もほとんど読まれてないと思う。それをどうしようかってことなんですが、たとえばカテゴリの細分化でしょうか。好きな分野をお選びになってね、みたいな。
まあ記事の選別をすればいいんですが、のっけられるものはのっけたいと思っています。同じようなことが繰り返されたり、まとまりのないぐだぐだな個人サイト論こそ、個人サイトを端的に表していると思うからです(一側面ですが)。またこんど書きます。
おまけ
文体すくらんぶりんぐー。
本日はishinao.net様が長期間に渡ってメンテナンスされていたのである。したがって、既にMMに深く依存している自分を発見した。死ぬかと思った(プギャーである)。ただしページはストックしてあるため、翌日まとめて登録する。クリップせずに巡回するのも気楽なものだ。
それでね、ロードモナークオンラインがおもしろいの。きゃらくたぁがちょこちょこ動き回ってね、とってもかぁいいの。でも難しいげぇむだから、うーんうーんって考えちゃう。おすすめだからやってみてねっ。すべては因果律の元に展開される。つまりはそういうことだ。
なれあいぽ(ニュースのないニュースサイトがすることなんてこれくらいしかNEEEE!!!!)
すっかりねこ依存症である。じゅーのたんのパクりのアイコンがかわいらしい。ぽ絵夢が素敵すぎる。
サイト名なんてなんでもいいんです。ちゃんと(「ぽ」じゃなくて)「ぽ」と記してくれるだけで十分です。
誤読帝王様はもちろんクロイタと読んでいらっしゃいました。できナビさんはあのmp3を発見なさいました。やるなぁ。
ところでがぞ君が昨日の「何故ウチのサイトを見にくんだよバーカ」みたいの
に反応してくれました。ぽっ。アレですか。言葉ヲチ。
アンニョイ
サイト名すくらんぶりんぐー。
アンディー・メンテというサークルのスターダンスというゲームにはまっています。たしか小学生か中学生のときにも一回やったんだけど、やはりおもしろい。音楽が良すぎ。良いゲームは永遠に不滅である。
同じくアンディー・メンテのライヂング★スターというゲームもおもしろいです。やり込みまくれます。
またファーレントゥーガというゲームもおもしろいです。プレイするだけでなく、エディットするツールもあって、楽しみ方は無限大です。RPGツークルみたいなやつね。エディット講座があるので参考に。
僕は技術的なことはわかりませんが、自分でゲームを作ってみるのは楽しいですね。RPGツクールをやってみよう!というコラムを読んで、個人サイト界を舞台にしたRPGでも作ってみたくなりましたが、ああ、想像できません。
「物語」としてのFFVII(カトゆー家断絶より)というコラムもおもしろかったです。というか、おもしろすぎる。なんぢゃこりゃ。親ページであるゲームを語ろうも要チェキです。まだ読んでないけど、「ゲームはいかにして物語となるか」というタイトルからして素敵だ。
ゲームを「物語」という観点から考察するのはおもしろいですね。あらゆるゲームにはなんらかの「物語」があると思うんですが、それを最も直接的に表現するのはヴィジュアル・ノベルでしょうか。これについてはペダンティックを引き寄せるエロゲー(乳之書)(まなめはうすより)というコラムがおもしろいです。
オチとかないんですが、おしまい。
ソーシャル・ブックマークがニュースサイトとしての機能を代替してしまって、三流ネタサイトに成り下がっている黒板ぽですが、よろしくおながいします。
穴埋め問題
○○ぽ
追記(21:18)
ねこあれるぎ〜、仕事がはやすぎ。もうパクってる。プギャー。尊敬する。「誰だあんた」は、じゅのたんに向けてでした。
追記終り
∧_∧
( ´Д` ) うびらー
/ ヽ
し、__X__,ノJ
/´⌒⌒ヽ
l⌒ ⌒l うびらー
⊂ ( ) ⊃
V ̄V
参考:VIP教を開こうと思う
↓解答
「黒板ぽ」or「くろぽ」→素直なお方ですね、好きですっ
「ぬるぽ」→ガッ
「ちんぽ」→今日の更新を読みなさい
「穴……にやにや」→今日の更新を読みなさい
その他→なにはともあれ、好きですっ
女の子ぽ
テスト期間に更新休止したら負けかなと思ってる
でも
女の子の日に更新したらもっと負けかなと思った
ところで今日、夢をみました
クラスメートの女の子とおしゃべりしていた
ただそれだけなのに
なんであんなに楽しかったの
なのに今
どうしてこんなに切ないの
恋ぢゃないぽ
その存在、その状態
声、表情、髪の毛のなびき具合(その、えれがんとな!)
うつむき加減、足の組み方、手の握り方
それぞれが独立した魅力をもち
個物が、しかし組み合わせも、そして総体として
すべてのレベルで、あらゆるスケールで、僕を魅了する
これが……
これが、萌えというものか
マンガ感想・批評サイトっておもしろいね。それ自体のおもしろさはもちろん、それによってマンガのおもしろさを引き出してくれることもある。これって文学の研究に近いのではないでしょうか、って知らないけど。
まえに「どんなにやる気のないときでもマンガならふつうに読める」と書いたような気がします。鴎庵さんで「マンガはリーダビリティが優れている」というような話しを聞いた覚えもあるし。いいよねマンガ。
またつい最近、個人ニュースサイターの日常をマンガ化した作品が大反響を呼びました。これについてかーずさんは「サイト論としては既出だけど、マンガでうまく表現したのがよかったね」というような発言をされています。
そんなこんなで今日は画像ネタがメインですよう。
オナーニしてるようにしか見えんと言ってるから、おそらくそうなのでしょう。ふーん……。
テストで点を取れ。話しはそれからだ。
オタク関連の記事をたくさん溜めちゃってるので、すこしずつ読みながら取り上げていこうと思います。
三月は去るから気をつけた方がいいよ。あわあわ。
上の言葉は自分へ向けてです。これはいろんな応用がききそうですね。「現実を受け入れろ。話しはそれからだ」「俺を愛せ。話しはそれからだ」「舐めろ。話しはそれからだ」……あれ、ナンダカオカシイヨ。
テスト前ってことなんで、軽く日記でも書こう。軽くというのは、考えずに書くということ、逆にいえば、思ったことを書くということ、です。文章というのは不思議なもので、散々悩んで書いた文章よりも、ああっはははhとノリで書いてしまう文章の方ができがよいこともありますす。「書きながら考えることはできない」とどこかで見たような気がしますが、少なからずその通りです。
というわけで、とりあえず書いちゃうのがいいのかもしれません。ただここで僕は「つたない文章を書いてしまったらどうしよう」と思うわけです。以前「書いたことの20%しか書けなかったら……」という改変AAを貼りましたが、それと同じようなことです。ただそれはやっぱり失ってるわけじゃない。書いた分、進んでいる。つたなければまた書けばいいぢゃないか。それはやりなおしぢゃない、再スタートじゃない、進んでいるんだ、すでに、だから、第1よりも遥かに進んでいる、第2のスタート、あるいは、分けられない連続的通過点の一部みたいなー。つまり、失敗はすなわち成功に近づくということ。ということを最終的に書きたい。考えたものをね。
それはそうと、きょうは物理の勉強をしていておもしろいと感じたことがありました。理解すればするほど覚えることが少なくなっていくのを実感したのです。これはこうだ、だからこれは覚えなくていいぞう、と。数学でも国語でも同じなんですが。真理を最小限の情報量で保持し再現する。これは個人の学習の指針であるとともに、学問の美徳そのものではないでしょうヵ。
あsfkじゃlfj。あ、書けなくなったのでおしまい。きょう僕が考えずに書けることは以上です。ちゃんちゃん。