いつもはエロい記事ばかり取り上げてるきをふしたん(中略)共学うらやましいな。ワロス。青春をその傍らで謳歌中きふきふ
同じく引用。ただ、当事者はそれどころじゃないんだろうなぁ
。これはたしかに問題ですが、昨日の文章では完全に無視していました。ひとつの人権を尊重するか、その他多くの学習を優先するか、という問題。とても難しい。人を救うために人を殺してもよいか、と。おおげさにいえば。
「いじめ」について書きました。かなり長文になっちゃんたんですが、よろしければお付き合いくださいな。
きょう(24日)は学校で「いじめ」について考えさせられた(受身と自発)ので、それについて書いてみようと思います。
いつもどおり担任の先生の国語の授業がはじまるかと思いきや、先生はいきなり「きょうは大事な話があるから授業はやめ」とおっしゃいました。まず板書したのが、これ。
僕のクラスでは「いじめ」が起こっているようです。被害者のケータイに、上のようなメールが送られていたらしいです。これが一番ひどいもので、他にも「いじめ」のようなことをされているらしいです。
これについてアンケートを書き、そのあとクラス全員が一人ずつ前に出て、このことについて意見を言っていく、というふうに授業(?)が進んでいきました。
ところで、このサイトに書いたこともあると思うのですが、ちょうど昨年のいまごろ、クラスメートをひとり亡くしました。それもあって、僕たちのクラスでは「死ね」といった類の言葉はタブー視されています。クラスメートを亡くして考えたこともあるのに、こういった「いじめ」が起こっているわけです。
これについて「みんなで同じ場所、同じ時間に考えて、みんなに意見を言って、みんなの意見を聞く」という形で、この件について考えていきます。このように「いじめ」について考えるというのは、べつに特殊なことでもなく、じゅうぶん「教育」や「指導」と呼べるものだと思います。
ただ僕としては、学校で、このような心の奥深くを改めさせる教育を行うことに、すこし疑問を感じています。そのやりかたによっては、思想の押し付け、いってしまえば洗脳に近い行為、僕なりにいえば学びの暴力になってしまうからです。これについては、感動や衝撃は理性にはたらきかけるかという文章で述べました。
感動や衝撃は、考える者を思考停止におとしいれ、理性というフィルターを介さずに、直接人の価値観にはたらきかけます。今回のような「いじめ」について考える授業(以下、「いじめ教育」)についても、感動や衝撃が多く含まれています。重い雰囲気がのしかかる中で考えさせられ、涙を流しながら話す女の子もいれば、自分のいじめられた体験について告白する人もいました(意外といじめられてた人って多いんだよね……)。このような状況では、客観的な意見が求められていないことは明らかです。感情的に考え、そして語ることに迫られます。
もちろん、この「いじめ教育」あるいは体験学習やビデオ学習なども、教育において大きな意義があります。黒板に字を書いて授業をするだけでは、どうしても実感のもてないことがあるからです。こういったことに関心を向けさせ、また、考えるきっかけを持たせるためにも、感動や衝撃を与える教育は不可欠です。
しかし、ここで注意すべきことがあります。ここで学べることは、あくまで考える「きっかけ」だということです。感動や衝撃で子どもの心を動かすだけでは、それこそ洗脳になってしまいます。心の問題について考えるのは、あくまで学ぶ者自身であり、価値観のすべてを教育者が決めてはなりません。つまり、感動や衝撃の伴った学習は「きっかけ」としては重要であるが、それだけで完結してはいけないということです。
これを「いじめ教育」に当てはめると、〈「いじめ教育」は「いじめ」について考えるきっかけとしては重要だが、それ自体で「いじめ」を解決することはできない〉ということです。「いじめ」をなくす(あるいは、すこしでも良い方向に向かわせる)には、日々の学校生活そのものを変える必要があります。「たまに考えてみる」ことでは、意味はありません。「いじめ」は日常の中で起こっているからです。
これについて、「日常/非日常」という構造を元に考えていきます。
まず、「いじめ」は日常です。「いじめ」は全国どこでも起こっていて、突発的でなく日々起こっていて、いじめる側もいじめられる側も実はふつうの学生であることがほとんどです。どこまでが「ふつう」であるかという境界線にもよるのですが、いじめる心は、それまでの環境や人生による長期的な影響から、つまり日常から生まれる心です。「いじめ」という事実や、いじめる側の人間は、日常にこそ存在しています。
そうすると、「いじめ」をなくすには日常を変える必要があります。そのためにまず行うのが、非日常である「いじめ教育」です。「いじめ教育」が非日常であるのは、それが、作られた状況において行われるからです。その状況というのは、先ほど挙げた雰囲気や涙や告白といった、「学びの暴力」をもたらしやすい要素から作られます。
「いじめ」を解決するにはどうすれば良いのだろう──と、皆がそう考えていれば、「いじめ」は起こりません。「いじめ教育」の場においては、この疑問を皆が考えているという点で、すでに「いじめ」は解決しています。これが続けば、これが日常にまでおよぶのならば、「いじめ」は完全に解決します。つまり、「いじめ」について考えることは、すなわち「いじめ」の解決であるのです。
しかし、「いじめ」について常に考えることは、簡単ではありません。「いじめ教育」という作られた状況においては、考えやすいし、意見も述べやすいです。問題は、それが終わった後に何を考えられるかということです。
僕のクラスを例に挙げましょう。
この授業が終わった後、しばらくクラスの雰囲気は沈んでいました。しかし、しだいに重い雰囲気も晴れていき、(いまここを書いているのは25日なんですが)いまではいつもどおりのクラスの戻っています。それでも、一部で「人を傷つけること」うんぬんと話している人もいて、ちょっと感心しました。
これはけっして間違った流れではありません。クラスのみんなが、忌むべきこと避けて、いつもの良い雰囲気に戻そうとした結果です。言い換えれば、みんなが嫌なことを忘れようとした結果です。
ここで問題になるのが、「嫌なこと」とは何かということです。僕もあのときの雰囲気はもう経験したくありません。だからといって、「いじめ」についての考えそのものまで忘れてしまってはいけません。それは忌むべきことでもなければ、嫌なことでもありません。心に留めておくものです。
このように、雰囲気は日常に戻りました。では、非日常すなわち「いじめ」教育から考えたことは、どこへいったのでしょう。正直なところ、わかりようがありません。本音を聞こうにも話そうにも、日常では難しいです。作られた状況が失われた今、一人ひとりが何を考えるかが重要なのです。忘れることと、心に留めることを、区別する必要があります。
非日常的な感動や衝撃あるいは悲劇から何か感じたとき、そのすべてを受け入れても、そのすべてを拒絶してもいけません。すべてを受け入れて学んだ気になっても、それは自らの生み出した考えではなく、ともすれば危ういです。かといって、すべてを拒絶しても、いままでどおり日常は過ぎ去ります。
もちろんこれは教育者側についてもいえることです。生徒が感動したからといって、それをもって学習とするのは、野蛮です。無粋なんだけれど、教育者はそのあとに冷静に考える必要性を示してやるべきだし、僕たちはそこから考えるを深める必要があります。
「心を動かされる」と言いますが、主体性を持った人間ならば、それは「心を動かすきっかけを受ける」ということです。つまり揺さぶりを受けること。揺れるのは、あくまで受け手です。
この文章は〈「いじめ」は教育の題材になるのか?〉というテーマなわけで、以上は〈「いじめ教育」によって「いじめ」は解決するのか〉ということを書きました。まとめると、非日常である「いじめ教育」そのもので「いじめ」を解決することはできない。日常に立ち戻ったときに何を考えるかが重要で、忘れてはならないこと、冷静に考えるべきことを心に留めておく必要がある、ということでした。まあ、難しいよねってことです
以下では、〈「いじめ教育」から何を学べるか〉について考えていきます。
もう一度今回の授業をふりかえってみましょう。
一人ずつ前に出て話していくという形です。「いじめ」を解決する心掛けについて話す人も多くいますが、その意見はさまざまです。そこで意見というのはとても幅広く存在し、また、どれが正しくて間違っているかを判断することは難しい、というか、できないこともあるのだと実感しました。常に正解のある問題に取り組む僕たち高校生にとって、このできごとは象徴的です。
まず〈「いじめ」を解決する心掛け〉について。みんなの意見を元に考えると、このふたつが挙げられます。
このふたつの意見は対照的です。前者は、すべてを知り、すべてを受け入れようという理想派の意見です。後者は、人はすべてを分かり合うことはできなのだから、関わらない方がいいこともあるという現実派の意見です。
少なくとも小学生のころは、前者が良いこととされています。「友達100人できるかな」とかいうスローガン(?)もありますし。中学くらいになると、「綺麗言」と揶揄されるような意見でしょうか。でも僕は、これが綺麗言だとは思いません。推測にすぎませんが、本当に分かり合える人もいるからです。すべてを分かり合えることは、皮肉でなく、すばらしいことだと思います。
一方で、距離をおいて人とかかわることの必要性も、高校生くらいになると気づいてきます。どうしても性格の合わない人はいます。そういう人ともすべてを分かり合おうなんて、それこそ綺麗言です。円滑に人とかかわっていくには、あえて無関心を装うことも必要です。これはけっして冷淡な考え方ではなく、人間関係を豊かなものにするための心配りだといえます。
分かり合うことと、距離をおくことは、両立しません。どちらが正解であるか知る術もなく、無理にでもどちらかを選ぶことに迫られます。幼いころは理想ばかりを教え込まれていたのに、突然それが相対化されてしまうのです。
真実でないものを信じ込ませ、ある日その現実を知らしめる教育──矛盾。分かり合るもの、分かり合えないもの、それらの混沌の中で、大人も答えられない問いに悩まされる僕たち──不条理。分かり合えないことを受け入れ、答えを導くことを諦め、現実に迎合する──妥協。(戯言デースケドガー)
「いじめ」について考えることは、このような人間社会の現実にまで話が及びます。たしかに、これらはいつか受け入れなければならないことです。しかし、いまのこの時期に学校で学ぶべきものなのでしょうか。正直なところ、知らない方が幸せな話です。
ただいえることは、これは教育者の一存で決めることのできない問題だということです。とくに「現実なんてこんなもんなんだよ」と開き直ることは避けるべきです。根拠もなくいいますが、皆が現実を良くしていこうと考えていれば、少なくとも悪い方向に向かうことはありません。「いじめ」について考えることがすなわち「いじめ」の解決であるように、現実について考えるとは、すなわち現実の改善ではないでしょうか。
大人や社会からしてみれば、ばからしい話かもしれません。おそらくですが、現実を変える難しさを身をもって経験しているからです。しかし、僕たちは希望を捨てきれません。というか、そんなの知ったこっちゃありません。結局、歴史はループするのかもしれませんが……、それでも、変えようとしなければ何も生まれません。現実に対して諦めを抱かずに、頭の片隅にでも希望を残しておいてほしいです。
「いじめ」というは、正直なところ、どうしようもない問題です。経済的な貧しさから戦争が起こるように、精神的な貧しさから「いじめ」が起こることも避けられません。僕は政治・経済はよくわかりませんが、すべての人間が経済的に豊かであることはありえません。強引な類推ですが、同様に、すべての人間が精神的に豊かであることもありえません。
この「いじめ」という事実は、変えようのない社会の現実を象徴していると、僕は思います。しかし、僕たちは「いじめ」に対して真剣に向き合っています。これは現実に対する真摯さを象徴しているのではないでしょうか。正解や解決にたどり着くことはできませんが、考えつづけることで、それは解決に相当すると信じたいです。
〈「いじめ教育」から何を学べるか〉。教える者と学ぶ者の心掛け次第で、それは希望にも絶望にもなりえます。
以下は思ったことをだらだらと書いていきますね。
言葉っていうのはいろんな解釈をされうるものなんだなと思いました。クラスメートのとある女の子が「言葉を噛み締める」ようにしていきたいと言っていました。言うときにも聞くときにも、相手の立場に立って考えるのは大切なことです。状況によっても人によっても、言葉の意味はぜんぜん違ってきます。
よくもまあこんなものでコミュニケーションできるものだと思いますが、だからこそコミュニケーションできるのかな。言葉というのはやっぱり不思議なものです。
実は同じ女の子の言葉なんですが、「人には触れてはいけない心の闇がある」と言っていました。それで、嫌なことを溜めこんでいると「いつか心の中の闇が爆発する」と。
闇というのがえらく抽象的でなんともいえないのですが、ここでも「闇から距離をおく」のと「闇まですべてを受け入れる」というふたつの接し方がありますね。僕はどちらかというと、自分の心の中の闇には触れないでほしいかなと思っています。まあこれも状況と人によるんですが。
別の女の子の言葉、「みんなすごい納得できるけど、なんかどれも違うかなとも思う」。すごく共感できます。これは〈そもそも「いじめ」はなくなるのか〉という問いとも関わっていると思います。思いつきの喩えで意味プーなんですが、〈空気は食べられるのか〉みたいな感じだと思います。現実を考えるにおいて避けられない違和感。
先生の言葉、「変なまとめもできんから、これで終りにするけど」。まあ妥当でしょうね。こういうときに何かいうのは難しいですから。ただ物足りないかな、というか、なんか抜けてる感じ、空虚みたいなー、とも思います。「考えっぱなし」みたいな。最後にどうするかってすごく難しいんですけれど……。
そんで、僕がもっとも恐れる問い、〈ところで僕はどうなんだ?〉。正直なところ、他人事です、プギャー。なんか一段高いところから見下ろそうとしています。涙ながらに語る女の子を前に、「ふむ、これは『学びの暴力』につながりやすいなあ。また文章に書こう。ああ、泣いている女の子はいとしいなあ、萌えっ」とか考えてる、どうしようもない高校生です、プゲラ。だめだこりゃ。
最後に、ある女の子が「なんかで聞いたんやけど」と紹介した言葉を引用して締めようと思います。さっきから女の子、女の子と言っているけど、それは僕が女の子のことが好きなわけぢゃなく、もちろんそれも事実ではありますが、やはりこういうときって女の子の方が語りますね。男子とか、まあちゃんと考えてるんだけど、女の子は「自分のこと」をよく話します。えー、まあ、〈本当の友達とは〉ということで。
更新少なくてごめんね。べつに期末テストの勉強だとか、受験勉強だとか、ソーシャルブックマークにいそしんでるとか、恋と友情について葛藤しているとか、そういうのじゃないんだよ。それもやばいけど。文章書いてるんデースケドガーなかなかまとまらなくてね。埋めるブログにカキカケがあるんデースケドガー。書いて考えるということを知っていて良かった、と、こういうときに思います。またサイト論についても書きたいんデースケドガー。きょうは言葉ヲチだけ。
毎日、個人ニュースサイトを徘徊してると中の人の体調とかモチベーションとか考えてることがなんとなく見えてくる。雑記とかを書いてくれてるサイトはすごくわかる。雑記とか書いてないサイトでも毎日見てると何となくわかるから面白いなぁ。関係ないけど、基本的に個人ニュースサイトの中の人ってみんな若いよね。
読書に励む日々。本を読んでいる間は本当に幸せですよ。
管理人の忙しさと更新量は正比例する。なぜなら現実逃避するからだ
俺は高校生の頃盲腸の手術をしたんですが、麻酔の効き具合をチェックされてるときに、おっさんの外科医に「ここはもう感じないだろ?」といわれながらちんこをデコピンの手つきで攻撃された。あのときの看護婦さんの失笑は今も脳裏にしっかりと。。。
あたりまえなんだけど、ブロガーが多い。ニュースをクリップしつつ長い文章を書いているブログを見ると、ニュースサイターとして圧倒させられます。すげぇ。
「いま偏ってるのがおもしろい」という意見と、「もっと使う人が増えればおもしろくなる」という、対照的な意見を見かけました。僕としては、いまの「MM」の偏り具合は好きです。まだあまり使ってないけど。そのうち何か考えたら書きますね。
というか、黒板ぽをぜんぜん更新できていない。
くろぽノートのサーバが復活してます。はてさてどうなることやら。
引用というより転載になっちゃってる。
教育というのは宿命的に、生徒にむりやり自主性をもたせるという矛盾を孕んでいる。
網膜に光の刺激が入り、視床を通して大脳皮質の視覚野に活動が伝わり、視覚野のお互いの密に結合した神経細胞が活動した結果、私たちの視覚が生じる。その視覚において、視野の中にさまざまなクオリアがそれぞれ生き生きとしたユニークさをもって存在し、それらが〈私〉に並列して見えていることは、一つの奇跡である。(p.200-201)
朝、目が覚めると、それまで何もなかったところに、〈私〉が生まれ、クオリアに満ちた私の体験が生まれる、というのは、この世界について私たちが知っている驚異のうち、最大のものであると言っても過言ではない。(p.204)
べつにものすげーことを言ってるわけじゃないんですけど、こういう言い回しは好きです。僕は奇跡という言葉に弱いみたい。くらっときちゃうの。
ポイントとなるのは、読み手の心を動かすことだ。(中略)
私の問いかけは、水に投じた小石のように、彼女の内部で波紋を広げた。やがて振動が大きくなって、彼女の潜在力を彼女自身が揺さぶり起こしたのだ。
つまり、書くことによって、あなたがあなたの潜在力を生かし、読み手を共鳴させることだ。読み手に、共感・納得・発見などの心の動きが生まれれば、やがてそれは読み手の内部で大きな振動となって、読み手自身の潜在力を揺さぶり起こすだろう。そういうふうに人に伝わる、人を揺さぶる文章を目指そう。
「やがて」という言葉に重みを感じる。それにしてもこの比喩はすてきだ。
埋めるブログにサイト論っぽい記事をいくつか載っけてあります。言及せずに溜めておいてもろくなことにならない。書かねば。ところでくろぽノートのサーバが落ちてる。もともと評判悪いところなんだけど、もうだめぽ。まだ使ってないのに! XREAのアカウントでも取っておけばよかった。
フローラと結婚したよ。10年も待っていたビアンカも不憫だったんだけど。
◆『教科書に載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』。2005/03/14発売予定。また延びた? あれをどうやって紙媒体にするんだろうね。
いきなり具体例から入っちゃって、なんだよこれはと思われそうですね。いま「考える出発点/書く出発点、そして学ぶということ」(仮)という文章を書こうとしているのですが、なかなか書けないので、少しずつ書いていこうと思います。自分でもどういうふうにまとまるか構想ができていません。だから(中略)とか入ってます。
さて、たとえば英語で長文読解の勉強をするとき。模試とか受験において求められる英語力のひとつは、はじめて見る文章を読み解く力です。どんなときも相手は「はじめて」のものであり、したがって、勉強のときにも「はじめて」を相手に取る必要があります。
下手に考えこまずに長文を通読することや、知らない単語を文脈から推測する力が必要です。辞書を引いては読んで、引いては読んで、を繰り返していても、「はじめて」に対処する力はつきにくいです。はじめて見る問題にたいして、自分だけの力でアプローチすることが大切なのです。
──というのが一般論。僕の英語の先生もそういうことを言っています。でも、これは僕たち学生にとっては圧力であったりします。(中略)「はじめて」が絶対的な価値を持って、迫ってくるのです。(中略)
しかし、「はじめて」に対応する力は、そんなに特殊なものではありません。いきなり全訳を見てから英文に入ってもいいのです。辞書を引きながら英文を読んでもいいのです。〈「はじめて」が相手だから、その勉強も「はじめて」を相手にすべきだ〉なんて、ただの根性論です。なぜなら(中略)
最終的に問われるのは、ひとつのことからどれだけ多くのことを学んだかです。辞書を引いても、苦労して推測しても、単語の意味はつねに定まっているものです。要は、それをいかに自分のものにするかです。(後略)
参考:悟りのガイドラインたとえば文章を書くとき
(゚д゚ )
(| y |)
考えたことが100%だとして、その20%しか書けなかったとする
考える ( ゚д゚) 書く
\/| y |\/
本来あるべき残りの80%が、失われたように感じる
( ゚д゚) 書く = 考える - 80%
(\/\/
だが、失っていない、得ているのだ
(゚д゚ )
(| y |)
もはや見出しの機能を持たない。
数学の先生曰く。いまの時期(高二のいまごろだね)っていうのは、「受験からの危機感はまだ小さくて、精神的にも時間的にも余裕をもって勉強できるギリギリの時期」とのこと。受験が近付くと、もう何がなんでも勉強するしかない。だから皆やるから、飛びぬけるのが難しくなる。いまなら、自分から勉強することができる、ということ。
この差(余裕があるかないか)はとても大きな違いだと思います。同じ「勉強する」にしても、能動的であるか受動的であるかが違ってくるからです。たしかに、結果としては、やっていることは変わらないのです。でも、「勉強しなければならない」ときに勉強することは、努力でもなんでもありません。逆に、「勉強しなくてもいいし、してもいい」ときに勉強することは、それ自体に価値があります。
「しなければならない」時期に入れば、もう周りや自分を見つめる余裕がなくなります。そこでできるのは結果を返すためだけの勉強であって、広く活かせる学力を身に付けること難しいです。僕にしてみれば、これは学習ではありません。いまの時期を大切にしたいです。
それでも、「ギリギリ」だ。絶妙な危機感と、絶妙な余裕。いまにしかない。
( ・∀・)< エロいな/
高校生活もあと1年かぁ・・・早いなぁ・・・。来年の今頃自分は何してんでしょうね(゚∀゚)ハハ八八ノヽノヽノヽノ\ / \/ \
そういえばあと二ヶ月で三年生で、受験までほぼ一年。ネットの海に揺られていられるのもあと少しだなぁ、と。
サイト論がネットを変えるのか、ネットが変わるからサイト論が述べられるのか、わからない。技術が進むからネットが変わるのか、ネットを変えるために技術が進むのか、わからない。たぶんどれもなんだろうけど。
ネット右翼/左翼うんぬんの話題はさっぱりわからない。わかろうとしてないからだけど。じゃーなりずむとかみんしゅしゅぎがネットに関わってくることも、もちろん必要だと思う。これらの議論が多くなる一方、いかにもな個人サイト(日記とか)も減ることはないのだろうね。
ネットは現実社会に近付いている。ネットという総体は分裂し、ひとくくりに議論することは難しくなった。という話から「夢峰」(kourick)⇔「鴎庵」(wavesll)往復書簡集ははじまります。あとは「定住地/名前」による「責任」とか「信頼」について。
議論が成り立つってすごいね。自分は、知っていて読んで考えて書かないといけない。相手も、知っていて読んで考えて書かないといけない。完璧でなくてもいいんだろうけどね。ファジーな過ちから議論が進むこともあるだろうし。ただ論点は共有しなくちゃならない。
そろそろサイト論なんかも取り上げていこうかなと思います。完全に流れに乗り遅れちゃってるけどね。
先生ちょこもらいすぎ。教師冥利につきるってやるですね。そういえば先日、ニュースサイト冥利につきるなあ、と感じるメールをいただきました。紹介しただけなのに喜んでもらえるのはうれしいです。自分で書いた文章がウケるともっとうれしいね。ただ一般には、やはりニュースサイトは中の人が前に出にくい。ちょこからニュースサイトの話題になっちゃった。
主観的な「幸せ」(2004/12/26)という言葉にはっとさせられました。
日記1:そういえば、雲って動くんだよね。子どものころはこれがすごく不思議だった。いまは、動く雲を見ることもない。真理としては動いているけど、それを認知する暇がない。時間というより心の問題。
日記2:「ドラクエ5」プレイ中。これはぢめてやったんだけど、すごくねー? まぢびびったんだけど。えぐすぎ。奴隷としての10年間って。こういうのって想像して泣けてきちゃう。「クロノトリガー」のロボを思い出した。あれはもっとアレだよね、何百年だっけ? 本作はケコーンできるんだよね、しかも二者択一。すごいゲームだなこれ。
参考:僕は、神山満月ちゃん! のガイドライン
∧_∧ ┌────────────
◯( ´∀` )◯ < 僕は、にーそっくす!
\ / └────────────
_/ __ \_
(_/ \_)
lll
正直なところ、寒いこととにーそっくすを履く(僕じゃないよ、女子高生だよ!)ことに因果関係があるかどうかわからないのですが。でも、にーそっくす履いてる女の子が多いような気がする! 何が良いというわけではありませんが、希少価値がありますよね! いや、やっぱりあれは良い。すばらしい。あんなのネットでしか見たことなかったもん!
ふと思い立ち、Vectorで「ストップウォッチ」と検索してみました。
いろんなことを測ってみるといいかもね。なんかしゃきーんってするからね。でも時間が目的になるのは避けよう。
「型」の重要性を痛感する日々。「ルールは破るためにある」というのは、なかなか至言だと思う(これを「言い得て妙」って表現するのかな? この言葉はあいかわらず遣い方がわからない)。ただ、型やルールを破るには、まず型やルールを通過する必要があります。近付かないと殴れないよね。夕日に向かってバカヤローといっても、世界は何も変わらない。これについては、埋めるブログに少し書きました。(「言い得て妙」でググったら、「ぱえりあ」が出て萌えた)
(「揺さぶる」という言葉のニュアンスは『伝わる・揺さぶる!文章を書く』を参考にしました)
文章には二つの美学があります。と書くとげーじゅつてきなんだけど、まあ、良い文章には二通りあると思います。一つは、詳しくて厳密な文章で、もう一つは、もやもやしてるけど深みの込められた文章です。
前者を「教える文章」と呼び、後者を「揺さぶる文章」と呼びます。どちらが大切でしょう。場合によります。
ひとついえるのは、物事の基盤となるのは「教える文章」であるということです。人が何かを考えたり知ったりするときには、何か基礎となる知識が必要です。基礎というのは、比較の基準になったり、類推の鋳型になったりするものです。何かを知るには、既に何かを知っている必要があります。そのための基盤は厳密でなければ、新しい知識があやふやになってしまいます。したがって、「教える文章」が重要です。
一方で、「揺さぶる文章」はどうでしょう。文章の深みは、解釈の広さにあります。解釈とは読み手自身が行うものです。だから、「揺さぶる文章」の質は読み手により決定されます。読み手に、読む力が求められるのです。その点で、「揺さぶる文章」は不完全だといえます。
文章の良さはその不完全さにもあります。人の価値観や思考はさまざまであるにも関わらず、わりと意見が通じるのは、文章(言語による意思伝達)が完全ではないからです。たとえば「おまえはイエス・キリストに創られたんだ」とキッパリ言われると嫌ですが(僕は)、「人間はとても大きな存在のもとにある」と言われると、いきなり反対はせずに、考えをめぐらすことになります。このとき、文章に揺さぶりを受けたのです。
「教える文章」はとても大切です。「教える文章」なくして「揺さぶる文章」は成り立たないからです。ですが、僕たち(学者とかじゃない人)が日常(研究とかじゃないこと)で求めているのは、主に「揺さぶる文章」ではないでしょうか。
僕はいま、ウェブの片隅にある個人サイトで文章を書いています。こんなところで厳密な文章を書いてもしかたありません。というか、厳密に書けるだけの知識がありません。だからあいまいに書きます。それでも文章としての価値があるのは、「揺さぶる」ことができるからです。
何かを教えてやろうなんて高飛車な文章を書くつもりはありません。僕が疑問に思ったこととか、ふと思いついたことなんかを、もし気が向いたら、心に留めてもらえると嬉しいです。あとはいっしょに揺れましょう。ゆらゆら。
(めずらしく熱くなった。ちょっと必死)
たとえば学校で戦争のビデオを観ます。悲惨ですよね。衝撃を受けます。そこでこう思います。ああ、戦争って悲しいなあ、こんなことはもう起こしちゃいけないなあ、平和が一番だなあ、と。あるいは、貧しい国の人々がひっしに生きているビデオを観ます。けなげですよね。感動を受けます。そこでも何か思いますが、省略。
さて、はたしてこれは学習といえるのでしょうか!?
感動や衝撃は、人の価値観に大きくはたらきかけます。しかし、そこに冷静な思考の入りこむ余地はありません。上の言葉を使えば、「揺さぶり」が起こる暇もなく、一瞬にして価値観を変えてしまいます。いわば学びの暴力です。
こういった学習(らしきもの)も、必要ではあります。思考をめぐらす「きっかけ」となるからです。しかし、実際に「きっかけ」として機能しているのでしょうか。学校が感動や衝撃を伴わせた学習を行うとき、もっとも大切なのは、そのあとに何をするかです。
事実を知る必要があるのです。差別がどれだけ長く続いてきたかということ。平和を望む心だけでは戦争を無くせないこと。これらの認識をなくしては、学ばされる者が中身のない価値観を持つことになります。ある意味で、こういう事実を知ることは無粋です。理屈じゃねーんだよという話でもあります。でも、それだけで済ましていいのでしょうか。ビデオを観ましょう、感想を書きましょう、それか話し合いましょう、はい終り──こういう学習に価値なんぞありません!(はぁはぁ)。
現代は視覚的に訴えかけるメディアがどんどん増加しています。感動的な映像、衝撃的な映像に溢れています。それらを観て僕たちは心を改める機会を多くもっています。しかし、ただ観て感じるだけでは、理性をもった人間としては、貧しい学習であるといわざるをえません。
感受性の豊かなことが悪であるというつもりはありません。しかし、何か大きく心を動かされたときには、改めて距離をおいて見つめることも必要です。そこで客観的な事実を得たり、冷静に鑑みたりすることで、解決の道が開かれるはずです。それが人間にとっての学習というものではないでしょうか。
(ちょうしにのってまだ書いてみる)
学校の勉強は、意欲や関心を引き出したり、学び方そのものを身に付けさせることが大切なので、どんな勉強にも意味がある、という考え方があります(形式陶冶)。また、勉強で大切なのは内容であって、個別的な知識や技能を身に付けさせることが目的だ、という考え方もあります(実質陶冶)。どちらが大切でしょう。どちらも大切です。僕としては、こういう分類そのものに違和感を感じるのですが……。
それはいいとして、やっぱり、いろんな勉強には意味があるって思いたいですよね。実際に、意味はあると思います。ただし、勉強の取り組み方次第です。(たしか『PHP新書』の栞に良いことが書いてあったような気がする。すっげー格好良い言葉。なんとかなんとか「このすべてに学びたい」ってさ。うひひ)
(だめだ。続きが書けない)
(なんだこれ)
(これで締めよう)
ひとつのことに時間をかけること。小さなものを選び取ること。同じことを繰り返すこと。あえてそうする勇気。
時間をかけることはおそろしい。時間に支配される現代社会においてはなおさらだ。だからこそ、本当に必要なときは、多くの時間をさくべきだ。周りは皆焦っている。そこで落ちつけ。時間を失うのではない。そこで時間を得ているのだ。しかし浪費するな。時間を使うべき時間を見抜け。時間を支配するということだ。
小さなもの・少ないものより、大きなもの・多いものの方が魅力的だ。物質と情報の溢れる現代社会においてはなおさらだ。だからこそ、本当に必要なときは、小さなものを選び取るべきだ。周りは皆飢えている。だが小さなものほど、自らの欲望に昇華する余地がある。爆発を秘めた萎縮を見抜け。起爆させるのは自身の手だ。
人は新しいものに興味をしめす。規格に縛られる現代社会においてはなおさらだ。だからこそ、本当に必要なときは、同じことを繰り返すべきだ。周りは皆移ろいている。流されるな、確固たる基盤を築け。だが単調な反復は避けろ。同じ物に新たな視点を見出せ。古きものは常に新たな発見を秘めている。
「ニートの日」に更新しなかった僕は負けかなと思ってる。
多感なお年頃。
書きたいけど書く気力がない。
サイト論とか書けないからっ。難しいから。うー。
日記つけるよ。ノートに。あと現代文と小論文を極めたい(大学受験レベルでね……)。
ネット上の議論が困難である理由の一つは、それが書き言葉(テキスト)によるものであるからだ。議論のように対立が先鋭化されていない普通の雑談、所感の受け渡しですら、テキストで行うのは難しい。テキストによるコミュニケーションは、そもそも簡単でないことを自覚しておきたい。(中略)
自分が考えていることを他人に分かるように筋道を立て、妥当性・正当性を保持させつつ書くことは大変難しい。(中略)専門家同士の議論であればテキストであっても議論として成立していることが多々ある。それは、彼らが共通の理念、用語、歴史、などを踏まえているからであるし、それなりに訓練を受けてきたプロだからである。(中略)
書くのはもちろん、読むのも難しい。ネット上の議論の多くは、違和感、疑問、反感などを出発点としている。それはいいが、読むときにそれらの感情にとらわれすぎであるように思う。(中略)議論するのであれば、相手の意見をできるだけ客観的に読み解き、自分の意見を相手の文脈に沿って他者に通じる形で表現しなければならない。
サイト論書きかけ。明日には……。
最近サイト巡回にあまり時間がとれないので、というか、以前ほどサイト巡回する意欲がないので、WWWCの中身をいろいろ整理してみました。「巡回サイト一覧」の方も更新しました。なにか変わってるかも知れないんで、興味のある方は見てごらん。
「ぐだぐだ」ってどういう意味?
今年から始めた『Amazonアソシエイト』ですが、(中略)紹介料を1日当たりに換算してみると約17円です。そう考えると、何となく日記の原稿料みたいに思えて良いですね。
家にいないことも多いので休むことは多くなります。
ネットで得た情報は隣の女子との会話のネタに良く使わせて貰ってますよ。ハハ
数学が本当にできるようになるには、小学3年までが勝負!ということで、このサイトを見ている方は皆ダメかと思います/
ニュースサイトやってるのは得る知識の幅を広げるため、かつ、おもしろいことでたまには頭の中をスッキリさせたいからかもね。
一軒家は中継点ということになるのですが、少しでも、見てくださる方が新しい発見をしたり、考えたりすることができるよーな、メモ帳にしていきたいっす。
ほわほわ/
ふわふわ
遊びとは無意味なことを楽しむことである
ちくしょう。時間ねーよ。明日はサイト論らしきものでもうpします。日記とか書きたいんだけど。つーかまぢ、最近学校すげーおもすれーから。ぶっちゃけ書かずに自分だけの思い出にしたいね。でも書かないと忘れるんだよね。だから書くよ。でもおまえらには読ませねえ。ぎゃは。それにしても、ほんと僕は女の子と接するのが苦手なんだよばかやろう(「接する」って「セックスする」みたい)。うえーん。くそうぼけかすあほ。なんで僕はこんなに純情なんだ。でもこんな自分が好きなんです。ぽっ。いたた。
今日ははじめて小論に関する授業がありました。書き上げるのにえらい時間がかかってけど、先生に誉められました。てへへ。なまじいつも文章書いてねーからな。きゃっきゃ。小論って、どれだけ自分の得意な領域に引き込めるかが勝負だと思う。たとえば僕の場合、人間関係に関するテーマなら、「情報による不完全なコミュニケーション」云々に持ちこんだら、いくらでも書けるしね。論理を捻じ曲げる。うまくいけばはまると思うんだけどなあ、やっぱり危ない感じ。
サイト更新より学校の勉強の方が簡単な気がする。
二日空けただけで世界が変わって見える。ウェブってとんでもない。
「自分の意見を示す」っていうのは「自分の限界をさらす」こと。怖くて嫌だ。これを乗り越えるには「諦め」が要る。僕にはまだむり。