習慣は第二の天性である
(英語の諺らしい。『本を読む本』から孫引き)
討論会の準備とかをみんなとやっていて、いろいろと刺激もあり、日記に書くことはいろいろあるのですが、時間がないので明日にします。クラスで事件もあったしね。国語の授業で、やっぱり評論読めねえなあと落ち込んだよ。読めねえばっかじゃやだよということで、たまたま日直だったから、学級日誌に国語教育について書いたよ。先日書いたようなこと。
後ろめたい気持ちなく「もっと時間があればなあ」と思えるのは珍しい。いいね。
とりあえず青チャートを読んでみよう。でも数学って一番(昨日で言うところの)勉強が必要な分野なんだよね。
自分とサイトを同一視しちゃってる口です。
虚構はしょせん虚構に過ぎない。だが虚構を求める人々の心は「真実」だというコピーが素敵です。
何を考えたかよりも、何から考えたかを表現したい
模試が終わりました。「いろんな意味で」というのは、もはや定型句です。でも、まあまあでした。自己採点もやりました。評論がやっぱり難しい。そうすぐには読めるようにならないね。評論なんて得意分野にしてもしかたがない感があるんだけど、もっと点を上げたい。
模試の合間に、クラスの男の子が「プリキュア」云々言ってました。模試が終わって、討論会の準備中に、クラスの女の子が「スクールランブル」云々言ってました。僕は「スクランキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」って思ったんですが、会話に参加する勇気もなく、かたわらで聞いていました。
ここで思ったのが、アニメとかマンガって本当に一般化してるんだなー、ということです。アニメみてエロゲしてる高校生なんかは、オタクとはいえないかもです。いわんや僕のような純粋無垢な高校生においてをや。
アニメとかマンガって、それだけ優れた娯楽なんだろうね。もともと「子ども騙し」なメディアだったんだろうけど(?)、いまはそれ以上の意義があります。おもしろいものを素直に「おもしろい!」って言いやすい空気になればいいね。(だが、妹やスク水に魅力を感じる嗜好は、まだまだ理解されないものと思われる。ちくしょう)
僕は机の前の椅子に座って筆記用具を持って書きこみ可能な紙あるいは冊子に文字=記号を書き記しながら考えることが嫌いです。つまるところ、勉強が嫌いです。「机の前の椅子に座って筆記用具を持って書きこみ可能な紙あるいは冊子に文字=記号を書き記しながら考える」ことを避けた勉強法を模索したい。だめかなあ。やってみなくちゃわからない、うん。
チンクロニシティ
それにつけても個人サイトは日記(語呂が悪い)。
※2月の高2全統マーク模試の小説のネタバレがあるので気をつけてね。
今日は萌えな話がないです。そんな毎日萌えられる生活がおくれるかよっ。ふん。今日は模試がありました。うわっ、すげー萌えるよ、模試。
昨日は「人」をネタにするのってどうんだろうと書いたのですが、今回の模試の小説がけっこう似たようなテーマでした。新聞社に勤めている定吉さん(うろ覚え)が、事実を隠したり個人をネタにしたりすることに、何かもやもや感じている、という物語です(解釈が間違ってるとアレなんで、曖昧に)。
(本題に入る前に──日記に本題も横道もないけど──すこし模試の小説ネタについて。今月の進研模試の小説もおもしろかったです。簡単に説明すると、「絵がめっさうまい芸術家気質(まぢくーるだぜ)の木島君に、『木島君(の絵)のことが好きだから、あたしを描いて(はぁと』といわんばかりの積極的な女の子・村田さんがアプローチする」というラブコメ(じゃない)です。
高2スレの同士にとても共感できます(!)。友達も「まあまあ好きな話」って言ってたし、遠野さんも続きを読みたいーということで読んだみたいです。僕も読もうかな。図書館検索したら予約されてた。もしかしたら模試がきっかけかな。だとしたら、ちょっとほほえましい、にこにこ)
さて、自分が考えていたことを活かせるのは嬉しいですね。このことについては以前も書いたかな? まえ学校で人権についてのビデオを見たときに、たまたま日直だったので、学級日誌にその感想を書きました。「明日感想を書く用紙を配る」と先生が言ったんですが、僕は「まあ書いちまえ」ということで、少し背伸びした意見文を書きました。「ネガティブな意味とポジティブな意味が『差別』という一つの言葉に帰結している」云々書いてみて、自分でなんだこりゃあと思っておりました。
翌日、その感想を書く時間になって、先生は僕の文章をコピーしてクラスに配りました。当時、僕はまだこの言葉を知らなかったんですが、いま考えると「イヤッァァァァアアアホオォォウ!」という感じです。
ただ、それはビデオに対する「感想」ではなかったんですね。さらに「ビデオを見て考えたこと」でもない、僕が以前からもっていた考えを記したものです。ビデオはなんかつまんねーもんだったので、あらかじめの考えがなかったら、僕は何も書くことができなかったはずです。それでもクラスに配ろうと先生が判断するほどの文章が書けたのは、あらかじめ書いていたからです。
その書いたきっかけというのが、とあるえっちな文章を読んだことです。それへの感想として書いたことを(学級日誌に書ける程度の内容にして)移したのです。
(まあどうでもいいんですけど、僕はこういうのがすごい好きです。「えっちな文章読んで考える」というアレな行為が、人権について考えるための動機になる。世間からは悪とみなされることを、世間から善とみなされることへ昇華させる。僕はこれを「悪性動機」と読んでいます。きをふし思考兵器のひとつです。いひひ)
ここからどういう教訓が帰納できるかというと、その場その場で考えることも、あらかじめ考えておいたことも、価値としては変わらない。だから、あらかじめいっぱい考えておくことが、実は思考力があるってことじゃないかな、ということです。
まなめさんが書くことが大事というのも、実にそのとおりですね(ちなみに、その下にある「問題解決の思考ルーチン」と「知識と思考」も素敵です)。人に読まれることや主張を交えることは、はじめのうちは意識しなくても良いと思います。書くことで見えてくることもあるだろうしね。受験国語のプロフェッショナル・石原千秋氏(と呼んでも過言ではないと思う)も、交換日記で文章力を鍛えたみたいです。それも女の子ふたり(!)を相手に。(くっそう)
それに、日記って話を逸らせやすいですから、その分、柔らかく考えることができると思います。いま日記書いてて、そう実感します。一般には「人の日記なんてつまらねえ」とか「くだらねえブログを書くな」とか言われるものですが、(これは僕のようなウェブ大好きっ子にだけいえるのかもしれませんが)その人の中身が浮かんでくる文章は、とてもおもしろいです。そうやって思いをしたためていけば、そのうちしっかりした文章(読ませる文章、訴える文章)を書く材料もそろってくるんじゃないかなと思います。
僕が、言葉(=言語)ってすげえなあと思う点は、ふたつ。残せること。曖昧なこと。そして、この二要素の結びつき、です。まあ、詳しく語るのも無粋だよね。ここは曖昧なまま残しておこう。
ごめんなさい「経済の空洞化」なんて概念はないです。産業です。恥ずかしいです。恥ずかしがると誰か萌えるのかな? うぅ、はずかしぃよぉ……。
一方で、ひたすら論理的な意味での「読解力」という言葉もあります。どちらも大切で、混ぜこぜに考えちゃいけないと思う。国語ってすごい教科だよね。けっこう軽視されてるけど。つかみどころがないんだもん。総合的な学習云々言うまえに、まず国語教育の整備をすべきじゃないかなと思います。
ウェブ上ってけっこう「人」をネタにしますよね。それは「ネタ」であって、あくまで楽しい雰囲気なんですが、本人にしてみればどうなんだろうと思います。2004年3大ニュースで代ゼミネタについてすこし触れたようなことです。ウェブって明るい話題が多いんだけど、むりやりに明るくしてるんじゃないかなーと感じることがあります。
キャバツ
今日もふつうの高校生らしい日記を書くぞう。
語学の学習の基盤は、記憶だと思います。日本語ほど慣れ親しんだ言語なら、とても深い部分で記憶が保たれているから、あまり意識していませんけどね、と想像しています。ふだん考えないような言い回しが、友達としゃべってると自然に出てくることがありますよね。これも記憶ありきなわけで、でもそれを意識しないあたりが、深い部分での記憶です。(ぜんぶ想像だけどね。文のねじれがひどいなあ)
英作文は「英借文」といいます。英語みたいな新しい言語を習得するにも、まず記憶(僕は暗記という言葉が好きではない)することが大切なんでしょうね。というわけで、英語の授業で例文暗記をやっていました。授業で例文暗記させる先生なんてあまりいないでしょうね。それも隣の人とです。かたほうが日本語を言って、もうかたほうが英語で答えるという形です。なんか非効率だよなあ、といつも思っていました。
まあ幸いにも、隣の女の子がかわいぁjふぉあじぇをいふぁjwlふぇじゃljふぁ。だもので、まあこれもいいかなと思っていました。(こういうことって学校の友達にサイト教えてたら書けないよね。とうぶん隠れニュースサイターです。これ日記だけど)
次に3人1組でやる(3P)形(体位のことではない)になりました。一人が日本語言って、残り二人が早く言ったもん勝ちです。なんだよそれわけわかんねーよと思ってたんですが、やっぱり隣の女の子がかわlfkじゃlsjdぁks。
そったらすごい楽しかったです。まぢ燃えたね。誤字じゃないよ、まぢ燃えたから。まあ正直なところ、萌えたけどね。
オチとかないよ。日記だから。
サブタイトル変更。
ほとんど日記サイト
学校で討論会があります。いまはいろいろ準備とかしています。僕は炭素税がどうこうの否定側のグループにいます。「産業の空洞化」とか、ふつうにみんな(ぼ、僕も含むよっ)が理解できていて、すごいなと思いました。たしかに中学でやったけどね、よく覚えてるもんだなあ。
中学でやる勉強って、大切だと思う。小学の方が大切かもしれない。あるいは高校の方が。もしくは大学。社会人。老後。生涯学習。ゆーきゃんっ。
あのころは勉強に疑いをもっていなかったからね。「やるもの」だと思ってた。それでもたしかに学力(とかなんとか呼ばれるもの。知性とか教養とか常識とかと同義っぽい)が身に付いてるんだもんね。「産業の空洞化」とかいう概念をなにげなく共有できる僕たちって、すっげー賢いと思う。
とても良い本です。読書案内もあります。読書案内がある本って嬉しいよね。
メモ:勉強の意味なんて簡単にわからねえ/知識がなけりゃ考えることはできない。「知識よりも思考力を」という教育方針はアレ/個性を重んじる教育は不平等を生む/「RLA」(researcher-like activity)、基礎へ降りていく学び/歴史ある学問はそれ自体が教養/政治と学術は隔たりがある
ひょんなことから長文を書きました。「ネガティブ哲学シリーズ」第五回を書こうと思ったんですが、下の文章でやめておくことにします。ちょっとあれな文章なんで、あまりクォリティを期待しないでください。これがきをふしクォリティ。
ポジ「あー、きみは最近でしゃばりすぎだよ、あはは。きをふし君が困るだろう。ほらほら、きをふし君は『楽しい』ことじゃないとやる気がでないんだよ。だからネガ君はあまり頑張らなくていいぞう」
ネガ「いや、俺だって、嫌なんだよ。でもしょうがないだろ。あいつが俺のこと好きなんだよ、たぶん。きもいけど。気がつけばネガネガネガ、これは俺の責任じゃない。あいつがネガを望んでるんだ」
「きをふし君は昨日の文章で『ポジを望む』と言ったぞう。きみが悪いんだ。深淵とやらに引きずり込んでるんだろう。文学的だなあ、うっひゃ、すてき。にしても、僕の出番がくれば楽しいのに、なんできをふし君はきみのことが好きなんだろうねえ」
「それがあいつの哲学なんだろ。非生産的な悩みに美学を感じているんだよ。これが知性である、みたいな。くだらねー。俺だってあまりあいつの傍にいたくないんだよ。疲れるし」
「あーそうか、きみはきをふし君の哲学さんなんだっ! そうだねえ、非生産的な悩みも格好言いと思うよ」
「たしかにいかにも哲学なんだがな。だが、何かにつけて悩みを正当化して、逆に、本当に必要な悩みは放り出すんだよ。社会の矛盾には悩むけれど、学校の宿題は最初から諦めてるんだ。悩みもせずに。それのどこか哲学だ。ばかかと、あほかと」
「だから僕に代われば良いんだよっ。そうすればきをふし君は人間社会の奥の深さに恍惚して、宿題を怒涛のごとく成し遂げるのである。すてき。まあとりあえず。僕に代わってくれよう」
「だー、それじゃ『解決』じゃないんだよ」
「それはきみの哲学だろう。あ、きをふし君の哲学か。世の中には『解決』できない問題はいくらでもあるんだよ。そんなにこだわることはないよ」
きをふし「これ書いてたらなにか道が見えてくると思ったんだけどなあ。なにも見えないや。やっぱりわからないことは書けないんですな。書けばわかる、ということはないかもしれない。わかってることだから、書ける。書きながら考えるのは難しい。考えておいたから、書ける。書けたから、考えに手応えを感じられる。
昨日はあること考えていました。考えるというと、けっこう曖昧なままでも筋が通ってしまいます。一人で考えるときの話ですね。考えるときは、何らかのイメージ、表象とかなとか言うんでしょうが、そういうのがあります。ふつう人に何かを伝えるときは、言語を用います。言葉をつなげて文章を構築して文脈を浮かび上がらせて意味を伝達するわけです。すげえな。ただ、一人で考えるときは言語化する必要がありません。そこをあえて、「全部言語化して考えてみてよう」と思い立ちました。
これが難しいの難しいの。まず「意義」を考えました。「意義」という言葉はすぐ浮かびました。よくわかんねー言葉ですしね。その分使いやすいです。さて、意義は、言語化することにより思考がより明確になり、深い考えを得られること、です。と、これがぜんぜんわからない。はじめは「知識が強くなること」と考えたような気がします。意味がわからない。その後も「知性」とか「確実」とか「論理」とか「萌え」とか、言葉の切れ端が浮かんでくるのですが、ぜんぜん言語化できません。
数分考えたすえ、「思考を言語化することにより、自分の考えにより手応えをもてる」という結論(つまり文)に至りました。この「考えに手応え」という表現もかなり曖昧で、やっぱり僕一人にしか通じない言葉だと思います。ここで改めて思考を言語化する難しさを実感しました。
いつもこんなこと、とてもやってられんです。すべてを言語化して思考に耽ろうとか、むりぽです。ただ、今回のように、たまにやってみて気付けることもあります。要はバランスであって、波だよね。
ポジとかネガとか、波だよね」
ポジ「泣けてくるなあ。僕もきをふし君もこの言葉が大好きです。波だよね。この言葉の由来をしっている人は、かなりきをふし君か黒板ぽのことを知っている人だね。そういう人がいてくれるだけで、すごく嬉しいです」
きをふし「えー、なんだ。ともかく、いや、ところで、『積極的な休憩』という言葉があります。何かのメルマガに書いてあったんですが、そのうち詳しく紹介しようと思います。
この概念について簡単に説明すると、たとえば右手が疲れている。なんとなく休むのと、あえて左手を動かして休んでみる、二通りのパターンを試しました。なんと、左手を動かしていた方が右手の疲れが取れた、というデータが出てくるではありませんか。というものです。
『脳は疲れしらず』といいます。有限なのは『集中力』であって、もしかしたら様々に刺激を変えていけば、集中や没頭はいくらでも持続するのかもしれません。教科書読むのに疲れたから、目を閉じてイメージしながら復習してみる。これはいずれも『勉強』ではありますが、それぞれがそれぞれにとっての『休憩』になりうるのです。
人生も、こういうものです。波だよね」
ネガ「なんか語ってるようだけd……」
きをふし「えー、人生も、波です。高いところ、低い時、低いところ、高い時、なんかが、あります。それはどれが、良い、悪い、じゃないと思います。失恋してこそ愛について深く考えることができるし、って、僕がこんなことを言っても説得力がないんですけどっ。具体例が思い浮かばないなあ。くそう」
ポジ「僕はポジです。きをふし君は最近僕のことが嫌いなようだけど、でもそれで良いと思うんだ。ネガ君はちょっとニヒルだけど、すべてを虚無と一度思ってみることで、それが逆転する機会が生まれるからさ。すべては虚無である、と仮定する。これの矛盾を導いてみよう。それがどういう過程かはわからないけど、もし矛盾を導けたとき、「すべては虚無であるわけではない」という命題が、とてもとても大きな重みをもって、自分の中に掲げられることになるんだ。
虚無感なく、ポジな日々をおくるとしよう。僕はそっちの方が良いと思うんだけどね、はは。そうすると、たしかに毎日が楽しいんだ。でも、」
ネガ「あー、これって昨日の『知っておきたかったこと』に影響を受けてるんだな。結局自分ではじめから生み出すことはできない、ってことだな。影響を受けることでしか、人に影響を与えることはできない。本当のオリジナルなんて、むりp……」
ポジ「黙れシャバ憎! あ、うん、毎日が楽しいんだ。でも、その楽しさに、重みはあるかな? それが本当に楽しいと、いえるのかな? ネガ君がいてくれるおかげで、対偶証明ができるんだ。ネガは間違ってる。ゆえに僕はちょっと正しい気がする。
もちろん、逆もあるんだ。ネガ君は、きをふし君にとっての哲学だからね。僕はここさいきん否定されている。ゆえに、ネガ君も少しは正しいんだ。
『ポジは偽である、ゆえにネガは真である。かつ、ネガは偽である、ゆえにポジは真である』数学的には、矛盾している。でもね、これが、僕の言う、そしてきをふし君の言う、もしかしたらネガ君も言う、涙よね」
きをふし「うはwwwwww変換wwwwwww涙wwwww出たwwwwww。マヂマヂ、マヂ偶然! やっべーこれ、ギャハ」
ポジ「えー、そういうわけなんだ」
ネガ「どういうわk……」
ポジ「ぴち殺しますワよ! 同じことばかりやっても、なにも見えてこないんだ。その点では、嫌なこともやらなくちゃいけない。でも、それはなんのためか考えてみよう。嫌なことは、好きなことのためにやるんだ。したがって、嫌なことは好きなのである。すてき」
きをふし「長くなったなあ。最後くらいは僕がしゃべります、きふきふ。えー、嫌なことは、僕はやっぱりやりたく、ない」
ネガ「ほらみr……」
きをふし「犯すぞ。でも、嫌なことが大きな意味をもっているなら、僕のとっての意味にとって大きな意味となりうる意味ならば(?)、僕はそれを喜んで抱きしめる。痛さゆえの快感。である。この世に意味のないことはない、というが、僕は共感できない。むしろ、意味のないことの方が多い。その中で、嫌なのに意味を持ったことがある。その裏面に、あるいは対極に、ときにはそれ自身に、好きなことが、あるのだ。
そもそも、人は苦しみから生まれる。生む。はじめてのあれも、まあ、これは女の子の話だけど、痛い。ましてや、その穴から一つの命が出てくるなんて、男の僕には想像もできないけど、苦しいと思う。生まれてくる命もたまったもんじゃないと思う。あんな狭いところから押し出されるんだもんな。でも、人は生み、生まれる。苦しみの中に、喜びがあるからだ。
思い出せない。けど、きっと苦しんでいた。僕自身も、僕の母も、それを不安げに見守ることしかできない父も。あなたも、そのご両親も。人は数え切れない苦しみの中で、代えようのない喜びを手にしてきた」
ネガ「だが、人は死ぬ。死ぬ本人の気持ちは知るよしもないが、先立たれた者にとっては、さぞかし悲しいことだろう。これを、涙よね、で片付けられるのか?」
きをふし「あー、それは至って極めてその通り、至極!なわけだけど、いまの僕には難題でごじゃなる。ネガ君はとりあえずそのことについて覚えておいてね。そのうち考えるから。そのうち。波だよね。
びっくりするくらい話が膨らんだなあ。考えていないことは書けない、と先に述べました。これはその通りだと思います。したがって、以上の文章は僕が考えていたことだと思われます。たぶん、僕の中での『ネガ』を自覚してから、考えていたことだと思います。言語化するのは、これがはじめてです。でも、できるもんですね。潜在的には、これだけのことを考えていたということです。たぶん。僕もすてたもんじゃないなあ、あはは。まあ、この文章は独り善がりなもんで、僕自身にとっての意味がほとんどだと思います。この文章を面白がっていただければ、それか、きをふしって痛いなあ、あはは、と微笑んで(おそらく嘲笑だけど)いただければ、嬉しいです」
ネガ「さいごにあd……」
ポジ「ガキはすっこんdモガッ」
ポジとネガは熱いディープキスを交わした。というか、ネガが犯した。
きをふし「きもっ」
ネガ「さいごにアドバイスだ。きをふし、この文章にはあまり価値を見出すな。おまえの好きな思考パターンだが、信じすぎると『薄れゆく』。裏切られたくないなら、信じるな。明日になれば、この文章におまえは赤面するだろう。だが、くだらないと思うな。無関心を装え。価値を気負うな。思考と意志のギャップに打ちのめされるな。信じすぎてはいけない。しかし疑うな。徐々に近づけ。そうすればおまえのものになる」
学校空間における男と女の関係という優越感に浸ってATフィールドを展開する輩は暴走すれば良いと思う。
好奇心を持っていると、努力が遊びになる。
時計を恨むな。
最近ものすごい勢いで知識欲がないのを感じ取れます。「ものすごい勢い」で「ない」というのもすごいんですが、とにかくないんです。NOOOOOOOOO( ゚∀゚)! って感じです。とにかくまあ、日本語じゃ無理です。
昨日の文章にもつながるのですが、楽しいときに「楽しい」と思ってしまいます。そう思ったが最後、何が楽しいのかわからなくなります。下の文章と矛盾するので削除。これは(下でいう)ポジかネガかに大きく関わるんだなあ。うーん。
あいかわらずネガティブだなあ。ぢゃあ、今日もネガティブ哲学だあ。
(まあなんていうのかな。僕の好きな言葉でいうなら、これも「涙よね(波だよね)」なんだと思います。ちかごろは「知識」とかよりも、小説を読むのが楽しい感じです。そんなに読んでないんだけどね。ぶっちゃけ読んでないけど。ふん)
「ネガティブ哲学シリーズ」第四回。書けば書くほどネガティブになるのは気のせいでしょうか。今日の文章は、昨日紹介した『「わかる」とはどういうことか』からの影響をけっこう受けていると思います。この本はすごく易しく書かれている(筆者の優しさが感じられるほど)ので、知性とか認知とかに興味がある人の最初の一冊に良いんじゃないかなと思います。
古来より人間は多くの事柄(いわゆる自然)について分類してきた。一定のルールに基づいた分類は秩序を生み、人類共通の知識を確立する。こんにちの学術の発展も、的確な分類がなされたことによる。
分類されない自然が混沌としているように、人間の心もまた、混沌としているものである。自然科学のように客観的ではないが、人間の心にも一定のルールに基づいた分類がなされる。そうやって人間の心は明らかになっていくのである。以下では、僕のさいきんの心の動きを、ポジティブな面とネガティブな面で分けて鑑みた。
僕はさいきんネガティブだ。ネガティブだ、と言うくらいだから、ネガティブだ。言えば言うほどネガティブになる。ネガティブだ。ああ、ネガティブだ。(以下、ネガと呼ぶ)
しかし、楽しい・面白いと感じ、ひたすら物事に打ち込めるときもある(以下、そのときの感情をポジと呼ぶ)。たとえば本を読んでいるときや、数学の問題を解いているときである。それが一段落ついても、ポジは持続している。もっと読もうとか、賢くなったぜうひひとか、うはwwww解けたwwwwwとか思い、やる気は途切れない。
その反面、ネガの状態は、どうやってもネガである。手もとにある一冊の本を楽しむことや、目の前の問題にハマることはある。だが、それを終えるだけで、一気にテンションが下がる。そのうえ「なんでこんなのにハマってたんだ?」と懐疑するほどだ。
そのときに、ポジである自分を思い起こしてみる。が、できない。ポジの自分が、まるで理解できないのである。むしろ正確には、理屈では理解はできるが、納得と実感ができない。ネガである自分は、ポジである自分をまったく受け入れられないのである。
一方、ポジである自分にとっての、ネガである自分についてはどうか。これも同様である。ポジである陽気な自分は、ネガな気持ちについて何も納得と実感ができないのである。「なんの意味があるんだ」と疑うネガを、「だって楽しいじゃん」という気持ちだけで一蹴できてしまうのだ。
──
僕はポジでありたいと望む。ネガに打ち克ち、ポジである自分を引き出す術を得たい。だが、それは無理なのだ。ポジを望めば望むほど、ネガはそれを嘲笑い、僕を深淵へと引きずり込む。
「解決」は不可能である。ネガそのものを、忘れるしかないのだ。忘れて、ポジである自分だけを肯定する。その過程にはなんの哲学もない。都合よく感情を切り捨てて、なんとなく都合のいい感情だけを選り抜くだけだ。
それでポジになれるのだから、情けない。情けないと思うのはネガだから、ネガの方が哲学ちっくなんじゃないかとも思う。こう思うのはいまの僕がネガだから。ポジならこんな文章は書いていない。そう思うと、ネガの方がまだ知的な感情だとも思う。だからネガの方がいい。この発想自体がネガなんだけど。(以下トートロジー)
なんかなあ。典型的な「葛藤」ってやつだよね。現代社会の教科書に載るほどに典型的だ。僕はあまり典型的なことは好きじゃないよ。あーあ、くだらないなあ。(byネガ)
手をつなぐだけでもいい。
幸福な勘違いはたしかにある。できればずっと勘違いしていたい……。本当に勘違いじゃないのが、一番嬉しいことだけどね。
でもまあ、いまだからこう思えるのでしょうね。僕も中学のころは「テクノロジ」としてのパソコンやインターネットに興味津々でしたから。そういうのは男の子に多いのかな。彼らにとって面白ければ、「テクノロジ」の教育も良いものだと思います。なんか曖昧な物言いなんですけどね。僕の中で、「情報」という概念は、「文化」と「技術」で二極化している雰囲気です。ああ、ますます抽象的になっちゃう。そのうちなんか書く。
格言には権威が不可欠である
最近メモするページがめっきり減ったような気がします。単に巡回量が減ったことによるのかもしれません。あるいは、自分一人で楽しみたくなったり、僕のやる気が失せたり、ウェブ全体の情報量が減ったり、ろくな世の中じゃなかったり、などの可能性が挙げられます。
僕がなぜニュースサイトをはz(中略)、それが溢れないようにHTMLで日々書き出すためです。それは保存欲からくるものであり、ひたすら残し(中略)、再び見ることは、少ないです。いい加減わかってきたのかなあとも感じていますが、最近は(後略)。
あまり略しすぎても(中略)すらも残す価値はないということです。情報収集よりも情報吸収を心掛けたい。それじゃニュースサイトの意味が(中略)が、それを吐き出していく、つまり情報のリストラクチャリング(人員削減にあらず)であります。
(後略)。
昨日紹介した『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』について、なにかげんにおよぼうかなと思います。早い話が、言及です。ゲンキュー。(こんなにくどい言いまわしをしても意味がないのは実に明らかである)
やはり感じたことはすぐ残すのがよろしいです。何度かいったことがありますが、考えたことは時間を置くほど整っていくものですが、その時その時の感情は、はかないものです。ましてや、それが図書館で借りている本ならなおさらです。借りて、感じて(あるいは考えて)、書く。本を買う経済力がない者だけに許された、貧しいゆえの豊かな学習であります。(だが図書館を利用するのはけっして貧乏だからではないという反論はたしかに予測できるものである)
さて、本作の著者・滝本竜彦氏は、ひきこもりさんでした(いまは彼女さんがいるらしいです。はんっ)。そのころにびみょうなテンションで書き始めたのが、この『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』です。(タイトル長いと言いたいのはけっして僕だけではないと思われる)
なんの脈絡もなく、むしろ脈絡をぶち壊すかのごとく、参考ページ。滝本竜彦氏はテキストサイト文化から生まれた作家(ARTIFACT)。どかーん。
滝本氏曰く、およそ自分のものとは思えない物語が、知らないところから降ってきた
らしいです(「あとがき」による)。神光臨、って感じですね。いわゆるゴッド。たしか、モーツァルトさんもそんな感じのことを言ってたらしいです。モーツァルトさんは〈宇宙から伝わるイメージをそのまま音楽にして表している〉ような感じで、作曲していたみたいです。(いわゆるゴッド)
〈創造は神にしかなしえず、人間は模倣を繰り返すにすぎない〉といいますが、もしかしたら人間に神(いわゆるゴッド)が光臨することもあるのかもしれません。……あれ、いつのまに話がずれたんだ? (これがわかるなら、きみ、僕の代わりにきをふしをやってちょうだい)
ああええと、そんなわけで、滝本氏はこの小説が大好きだ
と言います。こう言いきれるのは、切にすごいと思います。僕がいままで黒板ぽに書いてきた文章の中で、ためらいなく大好きだといえる文章は、なかなか思い当たりません。(あなたのことが大好きです)
ああええと(二回目)、なんだか取り止めがないなあ。別に主張とかはないんだよ(ないんだよ?とか半疑問系にしたらかわいいと思う)
文章が書けない。ネガティブだ。あ、そうだ、そのまま「ネガティブ哲学」へ。(ごく自然な流れだ。いわゆるゴッドのおかげだろうか)
「ネガティブ哲学シリーズ」第三回。第五回で小説でも書こうかと思ったんだけど、むりぽよー。これ終わったら、くろぽノートに過去の産物をまとめていくような作業でも始めようかなと考えてます。
価値観とは、何を大切にしたいかという気持ちである。
たとえば僕にとって、「楽しい」ことが大きな価値をもつ。これまでに何度か紹介したが、リーナス・トーバルズ『それがぼくには楽しかったから』からの影響が大きいと思う。「努力」や「頑張る」ことよりも、楽しもうとしている。
気がつけば、楽しいという感情を忘れていた。
そもそも、楽しいとはどういう気持ちだろうか。楽しいときに「今って楽しいよな」とかは思わないだろう。その感情に気付くまでもなく、何らかの対象に没頭しているはずだ。楽しいことに気付くのは、その楽しいことが終わってからである。楽しかったときのふわふわした感情を振りかえって、「楽しい」という言葉を当てはめているのだ。
言葉は有限であるが、感情が有限であるとはとても思えない。自分の価値観を何らかの言葉で表すのは、あくまで便宜上の表現である。そのことに気付かないでいると、価値観は薄れていく。言葉ばかりが先走りして、言葉では表せない感情を忘れていくからだ。
楽しさに絶対ともいえる価値を見出した。ゆえに、それは多くの場面で適用されていく。僕にとっての「楽しい」という言葉は、もうネガティブな使われ方しかしていない。嫌なことだから、せめて楽しもう。めんどくさいけど、どうせなら楽しもう。まあとりあえず、楽しもう。これが価値であるとは、情けない。
ひとつのことに強い価値を見出すのは、危険なことでもある。もともとポジティブであった価値が、からっぽな言葉に先導され、ネガティブにまで広がっていく。そうすれば、価値なんていうものは、疑わしくなる。価値を信じれば、裏切られる。
チョコレートおいしゅうございます。
棋士になるには必ず10代の時に養成期間が設けられています。知識以外の感覚的なものを養うには20代になってからでは遅すぎるからです。いまの時期を大切にしたい。
お前は間違えろ。俺が正す。
久しぶりに図書館へ行きました。(今日は変な文体だなあ。「ネガティブ哲学」は明日更新するよ。たぶん期待されてないだろうけどね。ネガティブだから)
ほんというと、あんまりこういうふうに本をドバーと出したくないね。なぜなら、本とはドバーと読むものではなく、日常にとけこむものであり、したがって本の紹介という行為も日常において自然であるかのごとく行うのが、道理というものであるからだ。また、日常としてのインプットから、同じく日常としてアウトプットすることは、学びの定着につながり、より豊かで深みのある知性を育むことにもつながるのである。なんちゃって。
それはさておき、父がタイムリーなことに綿矢りさ『蹴りたい背中』を古本屋で買いました。これはなんとか文学賞をとった作品らしく、読めば流行の最先端だぜ。いえい。とりあえず「オリチャン」は、『スクールランブル』のあの保健の先生(好き)で脳内補完しました。ああ蹴られてえなあ。
あと、土屋賢二氏の著書も、父からいくつかもらっています。いまAmazon.co.jpで検索して気付いたんだけど、『人間は考えるFになる』って、土屋賢二氏と森博嗣氏が組んでるんですね(びっくり)。ものすげえ読みたいです。
じゃあ図書館の話に戻しましょう(そうしよう、ね?)。
市川氏の著書では『勉強法が変わる本』を読んだことがあります。『学ぶ意欲の心理学』では和田秀樹氏との対談なんかも収められてるみたいです。夢峰さんにてお勧めされていた『考えることの科学』も読んでみたいです。「読んだことがあります」といっても、ぜんぜん内容を思い出せない。あはははh。
森氏の小説は二冊目(『臨機応答』を加えれば四冊目)です。「シリーズ物ってどれから読めばいいかわかんねーよ」という点と、これまた夢峰さんにてお勧めされている点と、なんか読みやすそうな印象を受けたという点で、本書を手に取りました。あまり夢峰さんのお勧めばかり読んでいると、きをふしが香陸君になるんじゃないかと、わくわくどきどきです。
滝本氏は『NHKにようこそ』の著者ですね。本作はデビュー作のようです。読みました。にしても、小説の感想書くのって難しいね。「読んだ人」のために書くのと、「これから読む人」のために書くのじゃ、ぜんぜん違うしね。前者は必然的に「ネタバレ」になるから、少しはばかられます。だから僕はこんな風に参考情報を載せるに留めます。でもまあ、面白かったです。
本屋さんに『GANTZ』(15)が売っていなかったのが残念。この漫画は、人や生き物がものすごい勢いで死んでいくんだけど(すっげー死ぬよまぢ)、そういうの大丈夫よ、という人にとっては面白いと思います。
いまさらなんですけど、修学旅行中に読んだ本に触れた記憶がないですね。お勧め本を募集したのにお礼をした記憶もありません。あわひっ。
それはともかく(うりゃうりゃ)、メモ.txtの片隅に残っていた本も載せておきます。
『メディアのからくり』なんかはけっこうお勧めです。
さ、話を戻して、修学旅行までにお勧めしてもらった本をリストうp(「りすとうぷ」と発音するんだよ。すごいでしょ!)しておきます。お勧めしてくれた人、どうもありがとー。
本多孝好:MISSING
谷甲州:星は、昴
貴子潤一郎:眠り姫
谷甲州:ヴァレリア・ファイル(上)/下
以下はマンガ
細野不二彦:あどりぶシネ倶楽部
日本橋ヨヲコ:G戦場ヘヴンズドア(1)/2/3
おまけ:『逆転裁判』/『旅行中の風景が思い出の一冊』
土曜日
。無理。
がぞたん受験終了おつちゃんです。がぞたんならきっと受かってます。なんたって中学生は勉学に励んでなんぼだからねっ!
哀れまれてるようです。俺のせいかも?
難しいことわからないおよ。
とつぜん「ネガティブ哲学シリーズ」第二弾。全六回くらいを予定(?)。ところで、この「第○弾」ってじづらがすごいね。戦争が勃起している感じ。
「やればできる」という言葉ある。魔法の合言葉らしい。人が「できない」というときは、たいていの場合、やる気すらない。そこから少し、あるいは多くの努力をすれば、いろいろなことはできるはずだ、という命題である。
この命題が真であるとしても、「すべてができる」わけではない。「やればできる」状況において「すべてができる」には、「すべてをやる」必要がある。そんなことを満たせるはずはない。したがって、僕たちは、本当は「できる」であろうことの一部を放棄して、残った一部のことを「やる」だけに留まる。それだけは「できる」のが、皮肉である。
言い換えれば、一人の人間には限界がある。僕たちは潜在的に「できる」ことを多くもっているながらも、才能や時間、社会、文脈、あるいは自分自身から制限を受けて、「やる」ことにすら至らないでいる。ゆえにできない。
──
僕たちは未知の可能性をもっているが、その多くは未知のままで終焉を迎える。
BUMP OF CHICKEN『ダイヤモンド』(作詞・藤原基夫)より可能性という名の道が 幾つも伸びてるせいで
散々 迷いながら どこへでも行けるんだ
素敵な詞である。可能性の広さを感じさせてくれる。だが、広いゆえにそのすべてを知ることはできず、僕たちを惑わす。どこへでも行ける
のも、やはり可能性でしかない。「どこへ行けるか」は、「どこへ行くか」による。それ以外のところへは、行けない。
どれだけの人物であっても、人間である以上、人生という絶対的な制限(「人は寝る」「エントロピーは増大する」「クジラは大きい」……?)の中で生きている。どんなに完璧な自分でありたいと望んでも、諦めなければならない。どんなに大きな可能性を信じても、人生の中では妥協せざるをえない。
人は、様々な価値のすぐそばにいる。しかし、実際に触れることのできるものは、ほんの一部でしかない。それだけのために努力したり楽しんだりするだけで、やがて人生は終わりを告げる。
なんかなあ。
ネガティブな話題が多いかなと思います。やっぱり軽いサイトの方が精神的に見やすいけどね。コメントに
量は関係無いのですが、黒板ぽは一部で言及系みたいな認識をされてるらしいので(ふーん)、以前は量を気にしていました。でもどうしても薄くなるから、今は書けることを書ければ良いやという感じです。ぶっちゃけ、最近は
楽しんでやっているがしない。もちろんこれは「楽しい」の定義によります。先日どこかのサイトで見かけた「苦しみを楽しむ」というような言葉のニュアンスがあるかなとも思います。このコメントがもうネガティブなんだよなあ。
感受性の高さにあるとしています。ちょっと誉めすぎで極端かなあとも感じますが、そういう一面はたしかにあると思います。僕も人付き合いとかあれだから、あまり話さない人と軽く言葉を交わすだけでも少し嬉しかったりしますしね。
へべれけホモの会マジありえん。
「いちゃいちゃしてんじゃねぇぇぇぇぇぇぇえええええええwっうぇうぇうぇwwwwww。」とか言っているきをふしさんがなんか可哀想に見えてきた。
どうせがぞたんもIKEMENなんだろm9(^Д^)プギャーーーッ
馴れ合いメーター上昇中。(うぃぃぃぃーん)
朝起きれないんですけどっ!
ボクの場合、いわゆる「萌え」と「燃え」をあんまり区別してないんです。だからその中間で「モエ」(中略)
もともと「萌え」も「燃え」も根っこの部分は一緒。
ここの一言がどうしても、薄い。メモ帳にストックしておこう。
へべれけ九州IIが無事終了。炙ったり噛んだりずらしたりすごかったらしい。
(@u@ .:;)ノシ なによそのIKEMENは。ふざけてるの?
いまみたらなんかモザイク取れてるしwwwwwwwwwwwwww いちゃいちゃしてんじゃねぇぇぇぇぇぇぇえええええええwっうぇうぇうぇwwwwww。
朝型更新に持っていきたいから、とりあえず軽く更新。
紺乃瀬那君も睡眠不足に悩んでるみたいです。彼女さんといっしょに寝たことはあるのか? ……ああ、僕せくはらおやぢぢゃないかヽ(`Д´)ノ プリキュアプリクラさっさとうpきぼん。IKEMENだったら泣く。
攻撃するゲームでよく遊んでいた児童は、1年後に「敵意」が上昇していた。ゲームみたいな記述に笑った。(追記:リンク切れてたんで修正。Yahoo!ニュースにはもうリンクしないっ)
すかすか勉強してもいい。デフラグすればいいのさ。やる気あるとこからはじめればいい。そのうちつなげる気が出る。
なんか。
ソキウス中の人の著書『インフォアーツ論』に書かれているサイト論が面白いです。ここでも個人サイトにおける自己言及について述べられています。Passion For The Futureさんの書評なんかも参考に。それにしても、書籍で個人サイト論を読むのは妙な感じがします(笑)。
自己言及っていうのは、根源的ななんたらであり、さらなる高みをかんたらであり、本質的なうんたらであります。という点で、それは成長がああだこうだで、あれです。
ああえっと、インターネットというと、「個人が情報を相互にやり取りできるメディア」という標語のようなものがあったと思います。その「情報」とか「メディア」というニュアンスがあれで、あや、ふた。
う、わー。うわー。嘘です。fjかljlウワー。
なにごともなかったかのように、今日。
このサイトは結構メタブログ的なエントリが多いのだけれど、最近どうも同じような意見ばっかり書いているような気がします。と言うことは多分ある程度メタブログって言うのは同じ場所をループするような不毛な作業なのかも知れません。ブログ運営初心者が一度は通るハシカみたいなものかも。
数年前に書いたテキストなどを読んでいると、昔と同じようなことをヘタに言っている(言い直している)だけのような気がしてきます。もちろん「読み返してみると恥ずかしくて赤くなる」部分がまだあるので、そこらへんがまぁ、少し成長している証拠かな、とも。
サイト論って積み重ねとかがなくて不毛だよなー、と前から思っているのですが、それってぜんぜんまったくあったりめーのことなのかもしれません。そもそも、(広い意味で)歴史ってループしてますものね。戦争はあいかわらずなくならないし、貧しいときも豊かなときも幸せというものはうつろなまま。最近の若者は……という大人と、大人ってやつは……という若者。反抗期だとか倦怠期だとか、人間は同じ道を通って、生きては死んでいきます。
技術や経済なんかはどんどん発達しても、人はそれに慣れてしまって、生きるってなんだろうとか哲学してみたりする。横に広く見れば、実はみんなもやっていた。縦に広く見れば、いつの時代もやっていた。と、こういうことを書くと、なぜ人類はあるのだろう、とか考えてしまいそうなので、てきとうにやめ。でもまあ、くねくねと進んでいくんだと思います。
すべての学科で基礎学力以上を成就した優秀学力の生徒は(中略)学年が上がるほど低くなった。「すべての学科」で「基礎学力」というのはすこし違和感がある。何を持って基礎学力としているのかな。
もっと見たいと思っている。なんかほのぼのしちゃうな。
勉強がどう役立ち、なぜ必要なのかイメージを描くための支援が必要だ。これに関して、Z会のメルマガに面白いことが書いてあったので、下に引用します(転載に近いけど)。
メールマガジン|Z-style2005/01/12付より今、個人情報保護ということについて、社会全体が揺れています。これは大切だ、勉強する必要がある…と、彼は思いました。個人情報保護に関する法律や本を読んでいると、インターネットに関する個人情報保護について勉強するには、「プロバイダ責任制限法」の勉強も必要なんだ、と感じました。
そこで、「プロバイダ責任制限法」を読んでみると、ウェブホスティングなどの技術的な用語がいろいろ出てくるので、プログラマーに助言を受けることにしました。
そして、用語については理解できました。しかし、実際にインターネット上で個人情報を大切に扱うには、簡単なプログラミングの論理構造を知っておく方が自分で対処できる…と考えました。
そこで、プログラミングの本ををちらちら読んでいると…Σやlogといった記号が出てきました。しかし、文系の彼は、昔から「数学なんて自分の就きたい仕事では使わない!」と思っていましたので、このような記号に触れたことすらありませんでした。
記号の概念を理解するまで、彼は途方もない時間を費やしたそうです。
あくまで私が考えた、稚拙なフィクションで申し訳ないのですが…決してない話ではないような気がします。
つまり、私が学生に問い掛けたいのは、「(高校生以下の)学生の段階(=取り巻く環境)で、社会に出てから必要、必要じゃない、という判断ができるのか?」ということなのです。
勉強はたしかに必要であるが、はやい時期からその必要性はわからない、ということでしょうか。何が必要かわからないから勉強しない、かといって、必要な勉強がわかればそれ以外には触れなくなります。というわけで、僕たちは高校生はなんでもかんでも勉強するしかないんですね。うひ。
続きがあるらしいので、またこんど取り上げようと思います。
学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆し。
(『論語』)
いまさら引用するまでもないほど有名な孔子さんの言葉なんですが、改めて心に留めておきたいです。
本来、「思う」は思索とか思考といったなんだか難しそうな意味を指すらしいのですが、ここではもうすこし簡単にたとえてみます。これは、問題を解くことと答え合わせをすることに置き換えられると思います。答えばかりを見て、自分で解答を作らないのでは、知識は定着しません。逆に、問題を解いてばかりで、答え合わせをしなければ、「アタマよくなったようなきがする」けど、むしろタチがわるいです。
(常体になるのは僕が独り善がりな文章を書いている証拠だよーん)
「アタマよくなったようなきがする」のは気持ち良いが、やっぱりそれじゃダメなんだと思う。もう理屈じゃなくて、絶対に避けたい。というのは嘘で、理屈ではわかるけど、どうしても「アタマよくなったようなきがする」ことを求めてしまう。
僕は答え合わせとか復習が嫌いで、これは(学生として)最大の弱点である。学生としてじゃなくてもマズい。むしろ学生のうちはまだよい。点数が取れないだけですむからだ。目の前に問題が「答え合わせ」や「復習」で解決しきれない状況にぶつかったとき、僕はなす術なく崩れさる。
答え合わせや復習は、自分の無知や誤謬を認めることに等しい。自分に何か欠けているかを知り、それを補う作業である。そこには自分への諦めが必要である。いまの時点で自分がいかに矮小な存在であるかを実感し、ひいてはこれからの可能性までも閉ざされるような錯覚にとらわれる。本当はその逆であることを、理屈の上では知っていながら。
僕がウェブを好む理由は、自分が否定・非難されることが少ないことによるかもしれない。ただし否定・非難とはおおげさなものでなく、漢字を忘れたり計算ミスをしたりするようなことだ(おおげさなそれも含まれるが)。これはもちろん逃げである。姑息な自己防衛にすぎず、ここからの成長は望めない。
それどころか、僕はウェブに逃げて、ここでもさらに逃避を続ける。むしろウェブはそれに適した空間である。好きなときに好きなところで、好きな部分をかいつまめば、十分に楽しめるし、学んだような気にもなる。「アタマよくなったようなきがする」のは簡単なのである。
エピクテートスとかいう哲学者さんは哲学の起源は、自己の弱さと無力を認めることである
と言ったそうだ(ヤスパース・著/草薙正夫・訳『哲学入門』から孫引き)。また、精神科医の斎藤環氏は、「大人になるには、『万能』の象徴であるペニスを取り去ること、つまり『去勢』が必要である」と言う(うろおぼえ)。僕にはこれが腑に落ちなかった。いまでも(理屈ではわかっていながら)受け入れられない。
弱さを認められないゆえの、弱さである。「アタマよくなったようなきがする」ことで気持ち良くなって、その先を恐れ、逃げまわる。もっとも、この文章がその「逃げ」にあたるかは、これからの意志次第だが。
サイト論書いたけど妄想はいってる遊び文章になっちゃった。てへ。まだまだ考えること書くことはあります。
カテゴライズすることで、アイデンティティが生まれ正当化されてしまうのはなるほどと思いました。(どうみても学習カテゴリじゃないけど、すこし関連したので)
今日は模試がありました(明日もあるけど)。以前に紹介したことばはちからダと教養としての大学受験国語を少し読んでいたおかげか、いつもより評論文が読みやすかったです。最初に「西欧」と書いてあるのが目に入っただけで、ああこれか、とすんなりとはいっていけました。
言葉すなわち用語の理解は文章を読み解くにおいて重要で、背景知識を持つこともそうであると実感しました。もっとも、この場合は用語の理解と背景知識がイコールで結べるような気もします。「専門用語だらけで難しい」といいますが、それをある程度理解すれば、「専門用語だらけ」の文章の方が読みやすいはずです。用語は、その分野における前提や考えが詰め込まれて、濃密な意味をもっているからです。
したがって、高度な文章を書くとき、たとえば学術論文や評論には、用語が不可欠です。そこに記された意味を捉えるには、書き手が用語を使えること、読み手が用語を理解できること、そういった用語すなわち背景知識の共有が必要です。というわけで、用語とか背景知識を理解するのは大事だよ、という一般論で終わらせてもいいんですけど、ここは黒板ぽだからサイト論です。
(「前振り長すぎ」とか言われそうだけど、これは日記だからそんなものないです)
さて、サイト論はくだらないです(一般論)。主な理由として、サイト論を述べる本人のサイト歴が短いこと、無根拠で自己満足な批判をしたがる幼い者がいること、建設的な議論の場がウェブに不足していることなど。逆の視点では、サイト歴が長い人ほどサイト論の不毛さを知っていること、あるいは、もううんざりしたり興味を失ったりしていることなどが挙げられます。
ここではとくに「建設的な議論の場がウェブに不足していること」を強調したいです。最近はブログのトラックバックなどの機能が普及し、深い議論が交わされることもあります。しかし、ブログという更新形体の性質上、どうしても時事的な議論にとどまるように思えます。また、つながりの拠点があいまいであるため、「この議論ならココ」といった場所を示すことも難しいです。ただ、これは新しい情報が優先されるウェブにおいて、避けることのできない性質であると思います。(インターネットの悲しいところで述べたようなことですね)
そのため、サイト論は、くだらないものが淘汰されることもなく、逆に、良質なサイト論が保持されていくこともなく、びみょーな平行線をたどっていきます(おそらくこの文章にしろ例外ではない)。はたしてこの現状で良いのかということは、ここではおいておきます。仮に、サイト論を述べるのに理想的な場(以下「ユートピア(笑)」と表記)が現れたら、サイト論はどのような進展を遂げるのでしょうか。
大まかに予測を立ててみます。まず項目の細分化がおこなわれる(ブログ、2ちゃんねる、とか)。各項目の意見がユートピア(笑)に集められ、ユートピア(笑)上の(理想的な)議論によりつぎつぎと淘汰されていく。そのうち基本的な考え(歴史)がアーカイブ的に構築される。そこから共通的な概念を取りだし、記号が割り当てられる(用語ができる)。そして、その用語を用いてさらに議論を深め、より高度な論が練り上げられる。
──ここまできたとき、もはやサイト論に意義はないと思います。ただし、ここでの意義とは「サイト論によって実際にあるサイトがより良い方向に向かうこと」とします。なぜなら、高度な評論はどうしても抽象化が進んでいき、実践を試みることが難しくなるからです。また、これは僕の個人的な印象ですが、高度な評論はあくまで後付けの理論であって、これからの方向性を変える力はさほど持っていないと思います。
(たとえば、「おまえのサイトは○○だからだめだ」「好きでやってるんだよ」「ああそうか」──これはまさにくだらない評論とそのやり取りですが、双方の主張はとてもわかりやすいです。一部では「そうだ、○○を取り入れよう」と思う人(おそらく初心者)もいるかもしれません。そうすれば、その人のサイトはきっと良い方向に向かいます(これは皮肉じゃないよ)。高度でない(つまりくだらない)ゆえにわかりやすく(ただ単純なだけ)、その水準に見合った人(ペーペーの初心者)にとっては有益(1が2になるくらい?)たりうるのです(これは単に「歴史のループ」だ)。)
くだらないサイト論が多いといいますが、実は、高度なサイト論のほうが不要なのではないでしょうか。ユートピア(笑)に集まるのは、よっぽどのサイト論好きの人たちであると考えられます。そこでのサイト論はもはや意義うんぬんではなく、彼らが知的欲求を満たすための手段および対象となります。
僕はサイト論が好きです。言い換えれば、ウェブとサイトのことが好きです。だからそれを深く追求したいと望み、このようなサイトを運営して文章を書いたりしています。おそらく黒板ぽを見てくれる人の何割かはサイト論などに興味がある人だと思います。その何割かは、実際にサイト論を述べたことがあったり、現に考えている人でしょう。いったい彼らは何を思うのでしょうか。
サイト論によって実際にあるサイトがより良い方向に向かうこと(意義)を求めるがために、サイト論を考え述べるのか、それとも、純粋な知的欲求を満たすがために、ウェブとサイトを考察するのか。
──
以下は雑感みたいな。
こういうのは本当に人それぞれだし、そもそもサイト論についてそこまで深く考えている人がいるのかも、はなはだ疑問だったりします、どきどき。この文章には「高度なサイト論にさえ意義はない」というちょっとアレな見出しを振ってありますが、僕としてはサイト論に意義はあると思っています。たとえ、それがどれだけ抽象化、高度化しても(ぶっちゃけ「高度化」っていうのはイマイチよくわかんないんだけど)。
「ユートピア(笑)」なるものが登場している時点で、この文章は妄想的で、意義(くどいですが、「サイト論によって実際にあるサイトがより良い方向に向かうこと」です)は失われています。もちろん、ユートピア(笑)君の登場するサイト論が高度だというつもりはありません。
しかし、もし学術的および論理的な筋を通って、サイト論にユートピア(笑)君みたいなやつが出てきたら、やっぱりそれは意義のレベルを超えているよね、という話です(この話自体が抽象的すぎて、もはや想像のしようがないんだけど)。でも正直なところ、できることならユートピア(笑)君みたいな空間を作れればなーとも思います。たとえばwikiとかのコンテンツ・マネジメント・システムはけっこう面白そうだなーと思いますが、でもやってみようという気が起きなかったりもします。
もう一度いいますが、いまのところ、僕は(くだらないものから高度なものまで)サイト論には意義があると思っています。これについてもまた書いていきたいな。
今日はすごい日だね。愛と希望と勇気が湧いてくるー。
。言葉にならなかった。残念。
最近サイト論についていろいろ考えてるのですが、情報と思考を溜めこんでしまっているせいか、とりとめもないつながりが大量発生して何がなんだかわかりません。少し違った話が抽象的な共通部分を持って、自分の中でつながりをもち話題が膨らんでゆく。これは嬉しいことではありますが、膨らみすぎると手が付けられません。
やっぱりひとつの文章にある程度の規模とまとまりを持たせたい、とも思いますが、もうちょっとチギリチギリやっていくのも良いかもしれません。個人サイトだしね(ここでは「書籍」と対比しているつもり)。プロの作家だって〆切に追われてチギリチギリ執筆してくんだから(という人もいるであろう)。
ところで、担任の先生が、ST(昼のプチホームルーム)の時間に新聞記事のコピーを配り始めました。感想とか要約とかは書かなくてよくて、とりあえず読んでみそという感じです。「朝読書」よりよっぽど良いですね。ただ、この担任の先生だからこそ、かもしれません。彼は(違和感ある二人称)国語の教師で、信頼というか、ちゃんと国語の教師だよなあと個人的に思っています。
(朝に15分やるから自由に本を読め、なんていう活動は僕にはたえられません。空気が嫌なんだよ。てめーら本なんてだらけて読めよ。椅子に座ってクラス中で静まりかえってみんなで本とにらめっこ。葬式よりたちわりーんだよヴぉけなす)
これを読め、といわれると、納得がいきます。朝読書の嫌なところは、「自由な時間を強制的に作られる」という気持ちの悪い矛盾があるところ。これは束縛に満ちた自由だ。その反面、自分がある程度信じられる教師が選んでくれた文章を「読まされる」というのは、むしろ僕にとっては自由なのです。
これは個人的な感情だから、「この逆説的な理論は○○により構成されるのである」みたいなことはいえないけど、まあこじつけてみましょう。主に三点。
一つ目。これは朝読書でも同様なのですが、
と、話がそれたのでこれは明日にでも。
さて、そのコピーには一日にふたつの記事が載せてあることもあります。そのふたつというのは、互いに(ときにゆるやかな)関連をもった記事です。ふたつの記事のコピーを、一日分の一枚として配布してくれます。そのときに先生が言ったのは、「このようにある物事を調べたときに関連した情報が見つかるのは、偶然ではない。ひとつのことを調べるときは、このようなつながりを実感できることがある」という旨のことでした。
個人ニュースサイトをやっている僕としては、多いに共感できます。まあ、最近は関連した記事を溜めこみすぎて、押しつぶされちゃってるんですけど。
えーとまあそおゆう日記です。
山田ズーニーって女性だったのね。
昨日くらいはすごくテンションが高かったけど、いっきにしぼんじゃった。
昨日あたり、忍者さんのアクセス解析の一部サーバがぶっ飛んでたみたいです。もう復旧してるみたい。なぜかJavaScript無効のユーザだけログってあった。イミネー。
思想と命はどちらが大事?に対するやえ十四歳さんの反応と、反応への反応
なんかすごいですね。実は僕、あまり読んで考えてまえせん。だって難しそうなんだもの(涙目の上目遣いで)。でもまあ、こういうでっかいやり取りを個人ニュースサイトとして仲介できたことは嬉しいので、かるーく触れておくことにします。
難しいことはよくわからないけど、やえさんは思想とかやってるかわいいヴぁーちゃるねっとあいどるさんです。僕は思想についてはさっぱりわからないけど、「こんなかわいいおんなのこなら(後略」ということで、易しそうな文章はたまに読んでいます(だから最近の「対話編」はすごく嬉しい)。
「ネットはその人の興味を写し出すだけで、新たな興味を広げることには役立たない」といいますが、やえさんは、僕の興味の開拓においてとても大きな存在です。ネットのことが大好きな僕としては、「ネットは興味を広げることにも役立つんだよ」といいたいのですが、それはそれで無茶です。やはり個人ニュースサイタさんなどのネットおバカさんにしか通用しない話ですから。
というわけで(?)、個人的に気に入った文を引用しましょう。
反応への反応(とある人間のマニア部屋)よりこの様に、私は読者との対話式で物事を考えると言う方向でブログを運営しています。
学問の基本である「問い学び、学んで問う」と言うことをやりたいわけです。(中略)
ブログって面白いですね。
「学問の基本」かあ。まさに僕の好きなような言葉ですね。学べて楽しい、ウェブって素敵だね。副題に掲げている「知性を娯楽する悦び」という看板が、少し重みを増したような気がします。
回りはじめない風車は回れない
率直な見出しにしてやった。
他人の夢の話ほどつまらないものはない。しかし寝起きには本人には面白く思えるのだからたちが悪い。
高校生のときの自分は、もっとしっかり物事を考えていたように思う。常に何かを考えていた気がするし。考える習慣をつけていないと、頭は動かなくなる一方ですね(´д`)ヤレヤレ・・・
3年前ぐらいに書いたモノが最近ニュースサイトで紹介されてて驚きました。
当方勝負パンツでひきこもりでキモヲタの毒舌腐女子ですが、仲良くしてください。
エロックスターのぢぢ・ぢぢおお兄さんが帝王のがんばりや受験生がぞたんをボロクソに叩いていて大笑い。それに対するがぞたんの冷静な対応がシュールだ。
夢にモモーイが出てきたから「黒板ぽ〜ぽた〜ん♪」に変えたよ(戻したよ)。飽きたら戻すよ(変えるよ)。
続いちゃう(?)。
じゃあまずは塾講師魂さんの文章をみていきましょう。そこでは「教える」ことと「説明する」ことの違いが説かれています。引用しちゃおっ(かわいく)。
塾講師魂より「教える」と「説明する」は違うと思うんです。「教える」は相手の立場に立って、足りないものを補ったり正しい方向に導くこと。「説明する」は自分の頭の中で整理して話すこと。
僕もそんな感じがします。わかっている者を主体とするか、わかっていない者を主体とするかの違いでしょうか。関連リンクの多くでも述べられていますが、教えるということは、相手の立場となって考えることが重要なようです。
相対化っていうのかな? 高次化だか客体化だか対象化だかなんだか、知りませんが、メタ的(だかなんだか)な視点を持って人と接することができるのは、すごいことだと思います。
ただ、相手の立場に立つのは、少し窮屈なことでもあります。塾講師魂のオゾン先生も、このあたりに葛藤なさっているようです。以前書いた誰に書くか、何を書くかという文章とも関連があるかなと思います(偶然、ここにも塾講師魂さんの文章があったり)。どんなに良い文章も伝わらなければ意味がないし、逆に、とりとめもない文章に面白さを感じることもあります。
どれだけ自分が深く理解しても、「教え」方によっては、何も伝わりません。他方で、自分の好きなように黙々と「説明する」ことで、多くの考えが伝わることもあります。あー難しい。
上にある教えられるという姿勢で教えるという文章の、教えようとする事自体が成長を妨げるのではないかとさえ思われる
という言葉は、なかなか奥が深そうです。
えっと、中途半端だけどおしまい。(「黙々と説明する」は変な表現だ)
このポは「○○ぽ。」というように全体の文を引き締める役割がある。黒板ぽ。……それはともかく、ヴィップってふいんきがすごいね。面白くないことまで面白く感じてきちゃう。あれみたいだな。
イデアとしての妹を欲する
もはや「ときどき」じゃないんだけど。
オタク差別に抵抗を感じながら、自分が一般人を差別気味に見ている矛盾。
なんだかずっと風邪っぽくて、頭がくらくらしちゃうう。あうー。
インフルエンザを頂きましたorz
サイト名長い…変えたい
あ。
トラックバック先にある意見としては、読んだり調べたり書いたりして馬鹿にはならない/ひとつのことばかりすると馬鹿になる/ネットするから馬鹿になるんじゃなくて、馬鹿がネットする──といったところでしょうか。あとはコミュニケーションの問題とか語彙と漢字についてなど。僕は回答者3番さんの意見が好きだな(笑)。
新たなる日常的行為とは違いますね(多少は含まれる?)。「新た」といえるのは、たとえばサイト巡回・運営や、ネット上でのコミュニケーション(SNSや2chなど。ただし「サイト」とも切り離せない)な